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「先生」という名の自己乖離の旅(エッセイ)


はじめに

 先生たちを支えたい、そんな気持ちから、
 
 先生として必要な力について、

 先生として必要な考え方、

 学校にこんなんがあったらいいな、

 先生って大変だよね、

 というような記事を投稿してきてきました。


 数で言うとこれまで約300の投稿をしてきました。

 ありがたいことに様々な方に読んでいただき、とても励みになりました。

 ありがとうございます。

 これからも先生としてのノウハウをはじめ、心の持ちようなど、長く、太く、先生をつなげられるようなコツのようなものを投稿できればと思います。



さて、今回の本題ですが、

私は本を出したいと思っています。

内容は、「1年目の先生を支える」というようなものです。

それに向けて私が経験したこと、してきたことを中心に記事を書いてきました。


そこであることに気づきました。

それは、「先生」という職業に縛られている若者が多いということです。

私自身も、「先生なんだから」という言葉を何度聞いてきたことか。

その言葉に人生の方向性を決められると言っても過言ではないと思います。

もちろん、公務員として、国のため、地方自治体のため、

全体の奉仕者としての役割を担うこと、とても大事です。

常に公務員としての意識を持ち続けることもとても大事です。


でも、その「重い責任感」に押しつぶされそうになっている若者がいることも確かです。

本記事は、その「先生」という職業に強すぎる責任感を抱いている先生に、エールを送れればと思い書いています。

身近な人にこのような先生はいませんか?

あなた自身がこのような状況に陥っていませんか?

そのような人に本記事が広がって、心の重しが少しでも軽くなればうれしいです。

では、始めます。



 

「先生」という名の自己乖離の旅


生徒ファースト、聞こえはいいけど、

自分の人生、大切にしていますか?

無理していませんか?

保護者の前ではペコペコと、

生徒の前では虚勢を張って、

同期の前では悪口を、

先輩先生の前ではニコニコと、

プライベートではパートナーに甘えて、

担任を持つクラスでは常に先頭に立ち、

自分の親には先生の仕事のやりがいを語る、

友だちには理想とする姿を語る。


自分が何をしたら良いのか、何をすべきなのか、そんなものは分からない。

そんな先の見えない仕事。

ただ先生として、保護者に、先輩に、子どもたちに求められる姿を演じている。

時に自分が何者かわからなくなる。

どれが本当の自分なのか。

子どもたちに夢を語る自分?

パートナーに甘える自分?

学生時代の友人に先生の楽しさや希望について語る自分?

部活動で熱血指導する自分?

授業で子どもたちからの質問に答える自分?

どれが本当の自分なのか。

それとも全て嘘なのか?

自分が定まらない。

自分の夢より、生徒の夢。

自分のプライベートより生徒の指導。

子どもたちには明るい未来を語るのに、自分の未来はお構いなし。

どんどん仕事とプライベートの境界線が薄くなっていく。

家に帰ってからも授業づくり、

土日は泥だらけになりながら生徒の指導を。

合っているか、間違っているか、そんなことに怯えながら、手探りで。

「公務員なんだから」

「先生なんだから」

「先生でしょ?」

そんな言葉に縛られながら。

「公務員は安定してるよね。将来は公務員になってほしい。」

「あなた先生に向いてるよね、」

そんな言葉に踊らされ、気づけば先生に。

部活指導をしたくて目指した先生。

でも、「先生=部活」、ではない、授業も生徒指導も校務分掌も、色々と。

高校の担任の先生は何も教えてくれなかった。

なんで止めてくれなかったのか。

いつか見つけられると信じている理想を求めるが、

現実が大きな壁となり、行く手を阻む。

プライベートの予定をキャンセルしてまでも準備した授業、

しっかり準備したつもりだったのに全然うまくいかない。

生徒たちも面白くなさそうにこっちを見ている。

軽蔑されていないか?分かりにくいって思われていないかな?

どんどん無くしていく自信。

それにつれてどんどん増えていく残業時間。

気づけば夜12時まで、土日も学校で授業作り。

周りの先生たちは楽しそうにおしゃべりをしてる、誰も必死に授業を作っていない。

なんで私だけ、なんで、なんで、

勉強には自信があったのに、教えるの上手いね、そんな言葉を信じて先生になったのに。

なんで、なんで、なんで、、、

私が思い描いていた先生ってなんだろうか。

なんで先生になりたかったのか。

先生になって何をしたかったのか。

先生という言葉にがんじがらめ。

先生だからしっかりしなくちゃ。

先生だから生徒のためを思って叱らなきゃ。

先生だから分からないものなんてあってはいけない。

先生だからいつもきちっと、油断せず、隙を見せちゃだめ。

先生だから、、、、先生だから、、、

そんな「先生」という言葉に追い詰められていませんか?


先生も一人の人間。

できないものはできない。

分からないものは分からない。

知らないものは知らない。

完璧でなくても良い。

無理して先生を演じなくても良い。

ありのままの、人間味のある姿で良い。

少しくらいドジでも、

少しくらい抜けてても、

少しくらいトンチンカンでも、

少しくらい何を言ってるか分からないでも、

少しくらい上手くいかなくても良い。

それでも、懸命に頑張る姿を見せる。

それでいいんじゃないか。

人間なんだから。

完璧を求めるならAIがすればいい。


難しいことでも懸命に乗り越えようとする、

そんな姿が子どもの見本となる。

そんな姿が子どもにとっての、人生の学びになる。

「偉そうに指導する」

「先生は絶対だ」


そんな先輩は真似をしなくてもよい。


自分ならではの姿を見せる。


先に生まれた、それが先生です。

ただそれだけの存在です。


これまでの人生で培ってきた経験や、思い出、努力、学び、それを先に生まれたものとして、子どもたちに伝えていく


それが先生なんじゃないかな。

「先生」という名前に囚われないで、

ありのままでいい。

自分ファーストでいればよい。

周りが自分の生き方を決めるのではない。

先生という肩書が生き方を決めるのではない。


自分の生き方は自分で決めれば良い。


その生き方を生徒に見せれば良い。

それが「先生」です。


おわりに

 エッセイ風に書いてみました。

 私が1年目の頃を思い浮かべながら書きました。

 1年目の当時は右も左も分からない。

 そんななか、平日も夜遅くまで、土日も犠牲にしながら、

 授業づくりに、学級経営の準備に、いろいろなものに追われていました。

 「自分は一体何をしているのか」
 
 そんなことで悩んだことも一度や二度ではないです。

 部活動連絡で保護者と連絡先を交換していたこともあり、定時後や、土曜、日曜に関わらず送られてくる部活動についての連絡メール。

友だちといようが、パートナーといようが関係ない。

「メールの着信音」におびえていた時期もありました。

 平日も、土曜日も日曜日も、ずっと仕事。

 友だちと遊んでいても、連絡を取るために席を外す。

 でも、そんなことは親や友達には言えない、言いたくない。
 
 生徒との楽しい思い出だけを語る、夢があふれる仕事であることを語る。

 平日になると生徒たちに叱りたくないのに叱る。

 自分でも、なんでこんなことをしているんだと思いながら。

 そんな辛いこともありました。

 同じような思いを抱いている先生がきっといると思います。


 そんな先生たちが、「自分らしく」いられるように

 そんな願いを込めて投稿します。

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