初恋
ちょうど1年前、大学2年生の6月。梅雨の間に経験した、短編小説みたいな初恋と失恋。その時の記憶と感情の全てを、僕は文字に綴った。
純度100%で好きだった。3回目のデートで僕たちは六本木に行った。彼女は地方出身の同級生で、ここに来るのは初めてだと言っていた。ちょっと高級なイタリアンを食べたあと、東京タワーまで歩いた。外には雨が降っていて、世界と僕たちとの間に1枚の防音膜を形成していた。水たまりに映る赤く滲んだ光に囲まれながら、帰り際に、告白した。なんの迷いも無かった。それは自然の摂理の一部として、至極当然のことだった。
これ以上に純粋で綺麗な感情を抱くことはこの先無いだろうと確信していた僕は、フラれてから2週間ほど経った頃、「できるだけ鮮明に今の記憶を保存しておかなければならない」という強い衝動に駆られた。
アルバイトは体調不良で休み続け、授業もろくに出なかった(お陰で単位はボロボロ、アルバイトも程なくして辞めることになった)。
そうして、かろうじて残っている気力の全てを執筆に費やした。出会った日から絶望を感じるに至るまでの過程を、丁寧に言葉に置き換えていく。傷口に鋭い刃をあてがうように、作業は痛みを伴った。胸は激しく締めつけられ、呼吸は時折浅くなった。朝方になるまで眠れない日々が続いた。それでも毎日少しずつ書き進めていった。
最後のシーンが終わり、Enterキーを押した時、少しだけ体が軽くなった気がした。
その時の僕はもう、以前の僕とはまるっきり違っていた。
月日は流れ、再び梅雨が訪れた。大学3年生になった僕は未だにあの時閉じたファイルを開いていない。いや、開くのが怖いと言った方が正しいと思う。
何かを完璧に変えてしまう力を持っているのは、結局のところ邪悪な悪魔ではなく、美しい天使の方なのだ。
一刻も早く忘れたいけれど、一生大切にしたい。僕はその時の記憶―会話も湿度も感情も―全てを琥珀の中に閉じ込めて、しまっておくことで、この矛盾から逃れようとした。
胸の奥に秘めた誰も知らない琥珀の存在が、僕に強いアイデンティティと孤独感を与えた。だから過去の1年間は琥珀に支えられて生きてきたとも言えるし、琥珀に支配されて生きてきたとも言える。
閉じこめられた君はまだ僕に向かって、あどけない笑顔を見せている。真っ白なワンピースにDiorの黒くて小さなショルダーバッグがよく目立つ。
あの時と同じ季節。夏の予感のする生あたたかい気温が、首筋に感じる湿度が、舗装された道路にはねる雨粒が、僕の心をざわめかせる。ふとした瞬間に、忘れかけていた幸せな日々に、色合いが戻る。振り返ったら消えてしまうほどの、ほんの一瞬。
傷つくのが怖かった。内面世界を拡張して外界に背を向けることが、自己を保つ唯一の手段だった。
小説の文字列を目で追い、音楽で空白を無理やり埋め続けた。名画座に通った。昔の映画を2本続けて観れる小さな劇場で、スクリーンの光に照らされる僕は1人だった。
何も変わらない自分に嫌気がさして、仕事に没頭した。「成長」という薄っぺらい言葉に机上の論理を肉付けして、偽りの自分を育てた。実際のところはインターンだって、他人から逃げて自分の殻に閉じこもるための手段に過ぎないのかもしれない。
適当な女の子とデートしてみても、僕の心は静止画のように動かなかった。何の驚嘆も無い、と言っていい。早く忘れたくて遊んでいるのに、それらは全て君への好意を再確認する残酷な結末に帰着した。
琥珀を壊し、損なわれた自分を取り戻すことができた時、はじめて僕は一歩前に進めるのだと思う。それが何によって達成されるのか、僕にはまだわからない。
なんぴとも孤立した自己を信じることはできない。信じるにたる自己とは、なにかに支えられた自己である。私たちは、そのなにものかを信じているからこそ、それに支えられた自己を信じるのだ。
福田恆存「人間・この劇的なるもの」