師への感謝
現在、西有穆山(にしありぼくさん)禅師(横浜、西有寺に住職した為、にしありと呼ぶ)の正法眼蔵啓迪(しょうぼうげんぞうけいてき)を拝読させていただいている。澤木興道師の、「一切経は坐禅の脚注(説明)である」という言葉により、難解な文章も何とか理解することができる。坐禅の仏凡、能所、自他など一切の分別を手放した処が本当に大切な処だ。仏陀は常に禅定を修し、その坐から立って説法をされた。「坐禅は自己の正体なり」(道元禅師、正法眼蔵随聞記)「聖人に己なし、己ならざる処なし、天地と我と同根、万物と我と一体」(鳩摩羅什くまらじゅう三蔵の弟子、肇法師じょうほっしの言葉)般若心経では、(不垢不浄 不増不減 )「知覚にまじわるはこれ証則にあらず」(道元禅師、坐禅と一体になっている時が大切な処なので、私は証った 私だけがさとったとは言えるものではない)しかし、そう「言うと、思うと、考えると」大切な処と自分ともう二つに分かれてしまっている。だから本当は口では言えない。口でいうと常見、断見のうち、常見に偏ってしまう。古来より経蔵(お経をしまう蔵)のことを指月堂などと呼ぶのは、文字、言葉は月(真実の世界)を指し示す指でしかないからだ。だから、不立文字、直指人心(菩提達磨)という。維摩経では、維摩の一黙、雷の如しという、分別以前の自己を示す為に、あえて、黙ったのである。坐禅は、悟りに至る為の単なる手段ではなく坐禅自体が目的だったのである。
私は、お寺ではなく一般家庭の出身だが、進学校で野球をしていた高校生の時から檀家であった宮城県の曹洞宗のお寺に通っていた。和尚さんのお母さんは東京で紀野一義先生に師事していた方で、万徳円満というような、とてもあたたかい人格の方であった。その後、仏教を更に深く学ぶ為、坐禅に通うために無一物で名古屋に引っ越してきた。学ぶ始めに、良き師に出会えた事は本当に有り難い事だった。「正師を得ざれば、学ばざるにしかず」(正しい師でなければむしろ、学ばない方が良い 正法眼蔵随聞記)私の師は、「損は悟り、得は迷い」(澤木興道師)を実践している方ばかりだ。更に、ひたすら道を慕って精進を続けていきたいと思っている。
正法眼蔵啓迪は難解な小さな字の分厚い本が3冊あります。何とか、半分読み終わりました!私は未熟の為、上求菩提が一番大切です。しかし、「我は菩薩たり、衆生を益利せんと欲す」(龍樹尊者 大智度論だったと思う、、)という事もやはり同時に大切なので、頑張って書かせて頂きます、よろしくお願いいたします!
写真は岩波文庫の般若心経、金剛般若経です!