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人類の永続を祈る
内山興正老師に師事されていた、水原舜爾先生(岡山大学医学部教授)のご著書を4冊、拝読させて頂いた。私は看護師の資格を持っていて、昔、フローレンス・ナイチンゲールの「看護覚え書き」を読み、看護の知識は専門家だけが持つものではなく、すべての母親が持つべきものであるのでこの書を書いたとあるのを見て、感動した事を覚えている。また、看護学校では、日本看護協会出版会から出版されている、渡辺和子シスターの「現代の忘れもの」が配られ、読ませていただいたり、マザー・テレサ(1979年 ノーベル平和賞)のインド、カルカッタでの活動の映像を見せていただいたりと、とても感銘を受けた。
昔、私が小学校低学年の頃だと思う、かなりの田舎の、まだ木造二階建ての美しい校舎で、学校の担任の先生がクリスチャンの方で、「自分がされて嬉しいと思うことを、人にもしなさい」(黄金律)というキリスト様の言葉を教えてくれたり、「学校の先生は、人格的にも立派でなければいけないので、キリスト教か仏教を信仰している方が多い」と聞かせてくれたりしたのが良き思い出として覚えている。その後、新興宗教による重大な事件などがあり、宗教の話を語る事はタブーとされるような雰囲気となっていった。そんな時代の子である私は、なぜ、頭の良い人がそんな事件を起こしてしまったのだろう(犯人の中に有名大学の人もいた)これからは、知識も大事だが、知能に偏らずに、真・善・美を見抜く「感性」「情緒」「心」を磨かなければならないとその時まだ言葉にはできなかったが、感じたように思う。(動物行動学者の、コンラート・ローレンツ 1973ノーベル生理学・医学賞は、「文明化した人間の八つの大罪」のなかに『感性の衰滅』をあげている)
「子供たちには、不徳をその本質の上から憎むように、丹念に教えてやらなければならない。徳は富むことも、強力であることも、知恵あることも、麝香(じゃこう)の褥(しとね)に伏することもできる。生を愛するし、美と栄光と健康とを愛する。けれども、徳の本来の独特な仕事は何かといえば、それはこれらの善きものを適度に用いる術を知ることであり、また、それらを失っても毅然として堪える術を知ることである」(ミシェル・ド・モンテーニュ)
「真理と美の追求は、我々が生涯、子供のままでいられる活動領域である」
(A・アインシュタイン 1921ノーベル物理学賞)
「当局者~国王とか政治家とか将軍とか~そういった連中というものは、新聞によってあまりにも報道され、もてはやされるので、往々にして一般人の目には、思想や行動のうえで巨人として映ってくる。彼らは一種の後光につつまれ、何も知らないわれわれは、かれらが実際には少しももたぬ能力まで、彼らが持っているように思い込む。しかし、よくよく近寄ってみれば、じつは彼らもごくありふれた人間なのだ。オーストラリアの有名な一政治家が、かつて言ったことがある。『世界は、それが実際にはどんな乏しい知能によっておさめられているかを知れば、一驚を喫するであろう』と。」
(インド ネール首相 「世界歴史」)
芸術的直観と学問的推論は、人間に宇宙における彼自身の地位についての考えを与え、宗教的畏怖という太古の感情を深める。W・H・ソープによれば、宗教的な畏怖の感情を生ずるのは、人間が自分自身とは比較を絶した大きさをもつ、ある全体の一部であることを知る時である。なんらかの畏怖を感ずる能力のないことは、知識の十分な広がりをもたない学問的思考、つまり、学問的半可通(はんかつう)による、我々の文化の一つの危険な病気である。(コンラート・ローレンツ 1973ノーベル医学・生理学賞)
科学が全部であると思っている人は、科学者として、あまり偉い人ではない。
(湯川秀樹 1949ノーベル物理学賞)
自然科学と宗教とは、人間から独立した「大宇宙を支配する最高の力」が存在するということを認める点で完全に一致している。人間は自然を認識するために科学を必要としm行動する為に宗教を必要とする。科学と宗教とは互いに補足し合うものであって、両者の間には、まったく矛盾は見当たらない。(マックス・プランク 1918ノーベル物理学賞)
科学は、どこまで行っても暫定的なものである。究極的に確立された真理があるといった断定的な主張を信じてはならない。何事に対しても、完全、かつ究極的な証明を与えることは、科学には不可能なことである。たとえ知識が未知の世界へ、どんなに深く入りこんでも、批判の埒外にあるような真理は存在しない。真理は人間の権威を超えたところにある。(J・C・エックルス 1963ノーベル生理学・医学賞)
我々の教育は、徳の定義や分類や細分を教えたが、我々と徳との間に、何らの親密な交際を結ぶことには、少しも意を用いなかった。立派な教育というものは、人間の考え方と品行を変える。(ミシェル・ド・モンテーニュ)
知識と技術だけでは、人類を高め、幸せにすることはできないことを忘れてはなりません。人類には、道徳的基準と価値を説く告知者を、科学的真理の発見者の上におく、十分な理由があります。人類が、仏陀、モーゼ、イエスのような人格から受けている恩恵は、私においては、私の科学的知能の向上よりは、はるかに高い地位を占めています。人類がもし、その尊厳と、生存の保証と、生活の喜びを失いたくなければ、これらの告知者たちが我々に与えてくれたものを全力を尽くして守り、生かし続けてゆかねばなりません。(A・アインシュタイン)
世界の平和について、誰もが求めている。しかし、現在までに戦争が止んだことはない。エゴイズムとエゴイズムは、必ず衝突する、それが人間の戦争の根本的原因だ。自と他と分別する人間の大脳こそ、その原因だ。そのエゴイズム、人間の利己性を手放す坐禅、エゴイズムを十字架にかけるお祈りは人類史上の最高の文化遺産である。SDGsを達成する為に、人類の永続の為に、美しい地球を守る為に、謙虚に、畏敬の念を持って学んでいきたいと切に祈っている。
頭が生命を持っているのではなく、生命が頭を持っている。我々が頭を手放した時、かえって、「生命として、頭を働かせる」ことができる(内山興正老師)
(生命とは、マックス・プランクの言う、大宇宙を支配する最高の力であり、
ミシェル・ド・モンテーニュの言う、真にあるものとは何か。それは永遠なるもの、すなわち、誕生も終末もなく、時間によって何の変化も被らないものである。)