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現代の煩悩

 明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。
 無常迅速、生死事大なり。時、人を待たず。聖を去りては必ず悔いん。(宝慶記)
 澤木興道老師の名言集を3冊拝読していた。株式会社ディスカバートゥエンティワンからも刊行されている。法隆寺の勧学院で佐伯定胤僧正のもと唯識を学ばれてから、坐禅に生涯を捧げられた老師の言葉は、現代においても非常に大きな意味をもっていると思う。(平言葉で表現できぬということは、学問がこなれておらぬからじゃ。と、仏教を分かりやすく表現することに努力された。スティーブ・ジョブズ氏の師、乙川弘文師は若い頃澤木興道老師の元に坐禅に通っていた)
仏教では、思想が偏ってはいけない。諸法無我と、諸法実相という矛盾する考えを、坐禅(非思量、これすなわち坐禅の要術なり 普勧坐禅義)から見渡すと、矛盾は矛盾のままに、二つを頭で分別する以前の大自然生命に包み込まれている。
 花紅葉 冬の白雪見ることも 思へばくやし色にめでけり(諸法無我)
 峯の色 谷の響きも皆ながら わが釈迦牟尼の声と姿と (諸法実相)(傘松道詠より2首)
 澤木興道老師の言葉の断片(自分が参ずるつもりで、少しずつ書いて、実践していきたい。)
「人間の頭には、いつもなんぞ凝り固まりがある。何々主義などというのは、何々に、凝り固まっていることだ。それでどれだけ仏法が近くにあっても見ることはできぬ。この凝り固まりがあるからじゃ。」
「真実の自己というものは、どういうものかというと、白紙というより、青空のように透明で『一切衆生とベタ一面つづき』のものである」
「仏教を学するとは『損すること』を学ぶのである。お釈迦さまがいい見本じゃ。王城も捨て、美しいお妃も捨て、可愛い子どもも捨て、立派な衣装も捨てて−きたないおケサを着て裸足で一生托鉢してござった。みな損してござるのである。坊主で出世しようというのはだいたい間違っている。どうせイレモノぐるみの乞食じゃないか」
「群集心理とはおかしなもので、何も分からぬなら黙っておりゃいいのに、何も分からぬところにぶら下がってやりおる。自己のないことおびただしい。これを浮き世という。」 
「一人おるとそれほどでもないのに、グループができると、そこに麻痺状態が発生し、人間すっかりバカになって、良いか悪いか分からなくなってしまう。グループぼけするのである。そのグループぼけしたいがために、わざわざ会費をだしてぼけにゆくヤツもあり、一方いかにぼけさせるか、苦心して広告しているヤツもある。われわれ世の中から遠ざかっているのは逃避しておるのではない。この麻痺状態をおこしたくないからである。坐禅はこのグループぼけからシュッケイ(失敬、出家)することである」   (これからファシズム、ナショナリズム、国家主義による戦争や、「実際に起こりうる地獄絵図であるホロコースト」を防ぐために是非とも必要な智慧である)
 「他人のものを盗めば、もはやそれだけで立派な泥棒に決まっておるのに、今のヤツは警官が捕まえ、検事が調べ、判事が判決を下し、牢屋へ入ってはじめて罪人になるのだと思っておる。じゃから政治家の汚職なども、それをもみ消して逃れれば、自分は徳者だと思い、甲斐性もんじゃと思うておる。それほどグループぼけしておるんじゃ」                               
 「今時分の奴のやることは、みな集団を作って、アタマ数でゆこうとする。ー ところがどこの集団もグループ呆けばかり、金がほしいというのもグループ呆けなら、エラクなりたいというのもグループ呆け。いわんや党派をつくるなど、グループ呆けの代表である。そんなグループ呆けをやめて自分ぎりの自分になることが坐禅である。」
「一切が自己の内容であるゆえに、他人の思わくをよく考えて行動せねばならぬ」
 (現代という時代そのものにおいて指摘されねばならぬ煩悩を取り上げている。「何から何までグループや組織にまかされてあり、ただその中に漂っている現代人に対し、「透明なる自己の目」を覚そうということこそ、これからの仏教の世界史的役割でなくてはなりますまい。 内山興正老師)
 「昔の奴も阿呆じゃったね。ドエライ金と労力を使って城をつくり、それで何にするかというと、けんかするためじゃったのだからね。今の奴はもっとばかじゃね。原爆だの水爆だのまでつくって、ボタン一つ押して、ペロッといっぺんに人類を殺してしまおうというのだから。」
 「『平和、平和』とカドバッテいるが、黙っているのが、もっと平和である。」
 「夫婦喧嘩しようと思ったら、まず合掌してから始めなされ」
「スターリン一人生まれるのと、生まれないのでは、殺されるものの数が違う。一人の人間が生まれると、生まれぬとでは大変違う。お釈迦さま一人生まれたというのは、大変なことである。」(以上 澤木興道老師)
 「この人生を簡単にそして安楽に過ごしていきたいというのか。だったら常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。そしていつも群衆と一緒につるんで、ついには自分というものを忘れ去って生きていくがいい」(フリードリヒ・ニーチェ)
 「人々は宗教を軽蔑している。それを憎み、それが真実であるのを恐れている。これをなおすためには、まず宗教が理性に反するものでないことを示さなければならない。」(ブレーズ・パスカル  パンセ)
 「人間は、各自の狭い、個人的な関心事という枠を超えて、より広い全人類の関心事に心を向けた時、初めてこの世に生きていると言える」(マーティン・ルーサー・キング牧師)
 「人間が実際に把握するものは、それぞれの人間自身の存在の次元に左右される。より高次の人間は、その世界も大きく豊かである。唯物的科学主義の哲学を全面的に固執し、『見えざるもの』の実在を否定し、数えたり、測定したり、重さを測ったりすることができるものだけに関心を限定する人間は、非常に貧しい世界に住んでいるわけで、人間の生存に適さない、無味乾燥の荒野に住む経験をするのと同じである」「仏教徒であった経済学者 フリードリヒ・エルンスト・シューマッハ」
 「現代物理学では、原子的現象の観測に関して、意識即ち心の問題が生じてきた。我々が観測する構造と現象は、測定分類する心の産物である」(フリッチョフ・カプラ)(横山絋一先生 立教大学名誉教授は、唯識学の講義の中で「一人一宇宙」と話されていた。)
「我々が見ている大自然は、偉大で荘厳な構造をもっています。我々はこの大自然について、非常に不完全にしか知ることはできません。この大自然について考える人は、その心を謙虚な気持で満たされるに違いありません」「私の中に宗教的と呼び得るものがあるとすれば、それは科学で明らかにできる限りでの、宇宙に対する無限の感嘆です。」(A・アインシュタイン 1921ノーベル物理学賞)
 「我々が個人として認め知っているものは、独特な活動を発する一つの中心である。それは外界とも、また他の人間とも別個のもののようである。しかし同時にまた、環境や他の人々にも結びついている。これらなしには生きていけないものである。つまり、外なる宇宙的外界から独立しており、それに依存しているという二重の特性をもっている。我々は今や、身体の表面が個人の真の限界ではなく、それはただ我々と外界との間へ、我々が活動する上にどうしても必要な、劈開のような空地を形作っているだけのものであることを悟らねばならない。我々が人々や宇宙から全然独立していると思うのは一つの幻覚である。」(アレキシス・カレル 1912ノーベル医学生理学賞)
 社会を見ていて、危機感を感じる事が多い。社会を良くするということは結局「深山幽谷に坐して、権力に近づくことなく、一箇半箇を接得せよ」(道元禅師の師、中国の天童如浄禅師の言葉 一人でもよい、真実の人間を育てよの意)社会の一人一人が精神的に進歩しなければいけないということだ。科学技術の進歩と、人類の進歩とは違うということも、はっきりさせなければならない。これは現代の錯覚である。車が空を飛んだり、今よりもさらに様々なことが便利になる進歩も良いが、根本的に人類として真に進むべき方向は、遠いところに話を持っていかずに自己の今ここでの行のなかになければならない。人間の精神の進み、大人性の高さ、行動の深まりこそ人類の本質的進歩の方向であると、未来へ夢を描きたいと思っている。「火と言って何ぞかつて口を焼ききたる」行いこそ大切である。


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