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「平和に向かって」絶対必要な「自己の大人性」(推敲後)

「それはこの宗教が自己中心性の一つの表現にほかならず、またこの自己中心性たるやすべての相剋のもとであり、さらに集団の自我は個々人の自我より一層危険な崇拝の対象だからである。集団の自我がより危険なわけは、それが一層力強くまた悪魔的であるばかりでなく、信仰するに価しないことがそれほど明瞭にわからないからである。〜中略〜この集団の力は、個々人の自我になんらかの抑制を加える理知と意志との支配下を脱しているゆえに、それは潜在意識下の感情のなすがままになるものである。そして個人が罪を犯す場合なら、おそらく躊躇なく良心の呵責をうけるはずの悪業も、それが大鰐(おおわに)レヴィアタンの犯すところとなると、一人称が単数から複数におきかえられることによって、自己中心の罪をまぬがれたような錯覚におちいるために、とかくこれを大目に見ることになるのである。しかしこれほど真実にたがうことはない。なぜなら、個人がその自己中心性を一つの共同体に投射すると、それほど罪の意識を感ずることなくして一層無法にこの自己中心的な自我をおしすすめることができるからである。「お国のためというやつが悪党の最後の逃げ口上だ」(ジョンソン博士の言葉、ボズウェルのジョンソン伝 1775、4、7)そしてこの自我が集団的な行動をとるときに、個人の責任において行動するときにはとうていそこまで落ちることのないほどの深みにまで落ちてゆくことができるということは、あの無神経きわまる委員会なるものが、暴徒の狂暴性よりはるかに雄弁にこれを証しているところである。「アーノルド.J.トインビー 一歴史家の宗教観」より引用
 現代の煩悩の、組織呆け、グループ呆け、集団呆けである。
 「よく調えられし自己こそ、真の依り処なり」(仏陀)「坐禅とは、自分で自分が自分を自分することである」(澤木興道)「大人の定義とは、自己が自己として片付いて愚図らない(ぐずらない)ということ」(内山興正)この「自己」の生き方の一点に、現代における坐禅の意義、大切さがあると思う。
 仏陀は最期の旅で、(インド、クシナガラ)食中毒の病に苦しむ中、お側に仕える弟子の阿難尊者(アーナンダ)が心細くなり、「遠くにいる他の弟子を呼び集めましょう」と仏陀に聞くと、「我、一度も衆を領すと言わず」と話し、弟子を呼び集めることなく、少数の方に見守られながら、そのまま沙羅双樹の木の下で亡くなられた。「親方さま(お釈迦さま)は行き倒れ」「組織でしたことは、組織で壊れる」(澤木興道)「今ここで、自分がやれるだけやる、それだけですよ」(内山興正)
 何もかもが集団や組織に任されてある現代だからこそ、個人、自己をその中に漂わせることなく、むしろ自己の中に全てがあるという(総持)広大な(摩訶、マハー)自己を坐禅によって実現したいと強く願う。「神の国は近づけり」「神の国は汝らの中(うち)にあるなり」(聖書)「坐禅とは自我の私を十字架にかけて死にきらせて神の生命として生きることだ」(内山興正)「われわれが坐禅するとは、トルーマンも毛沢東もスターリンも抱いて坐禅する」(澤木興道)


 「自分に何か悪い所があったら、他人に悪口というかたちでもいいから、言ってくれ。伝え聞いて直していきたいから」(蓮如上人)
 「文章は書けるから書くというんじゃない、書くご縁があったら一生懸命書かせていただく、目のある方に批評していただくために書くんですよ」(内山興正)
 真実の生活、裏面のない行をしていきたいと誓願する。

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