人類の叡智を永遠にと祈る
ゲッセマネの祈り
願わくはこの苦杯(さかずき)を
弱き我より過ぎ去らせたまえ
されどわが意(こころ)のままにとにはあらず
御意(みこころ)のままになしたまえ
キリストの磔刑前の祈りである。内山興正師は前半の半分が仏教では南無観世音と助けを求める気持ちの一心称名、後半が南無阿弥陀仏の感謝のお念仏にあたると話された。「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」(道元禅師)とあるが、人生観を深め、死を見つめる(メメント・モリ)ことは大切である。博多の仙厓和尚は、辞世の一句を求められると、「死にともない」と答え、仙厓様ともあろうお方が、そんななさけない事では困りますと言われると、「やっぱり、死にともない」と答えたという。越後の良寛和尚は、赤痢で下痢の症状がとても酷かったようで、「裏を見せ 表を見せて散るもみじ」と詠まれ、「形見とて 何か残さん 春は花夏ほととぎす秋はもみじ葉」と、自然を形見として旅立って行かれた。そして本当に大自然生命と一つになった(帰命)。タイタニック号が沈没する時、乗客が部屋に集まって、神に召される深い喜びの中に祈りを捧げていたということも当時の人々の信仰の敬虔さを物語っていてとても感動した。釈迦は、「遺教經」の中で、自分が死ぬことは、「怨敵を降伏するがごとくしかも歓喜せざらんや」と話している。動物や植物の生命を毎日頂く(食べる)ことでしか生きられない悲しみを感じていて、我執(唯識では末那識)を完全に離れることは仏陀でもできなかったという事だと思う。だからこそ、誓願(衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成の四弘誓願や仏様によって様々な願がある)を持って生きなければならないと思う。
坐禅をする、死ぬことは無我が実現すると言える。(東洋の行、西洋の祈り これは人間の知性、理性では絶対に届かない世界、ただし、言えるところまでは言わなければならない 「宗教」という膨大なガラクタの中には人類の真の叡智が隠されていると思う)大久保利通は「無我論」に夢中になっていた。師の原担山(はらたんざん 東京帝国大学教授)の所でその話をしていると、いきなり担山に鼻を思い切りつねられて、ニコニコしながら「無我ならば怒らんでもいいな」と言われたそうである。
フランシスコ・ザビエルも日本への伝道の旅は難航し、途中人に騙されたり、苦労したようで、迫害の恐怖から、逃げ出したくなった弟子もいたようであるが、「己の心への不信頼のゆえに神への誠の信頼が表れる」と何度も語り、神に自分の身心を捧げている。(南無とは、お任せという意味)人間は、今こそ謙虚になり、自然を利用する生き方から、自然に手を合わせ、頭を垂れる生き方に変えていかなければならない。その行の中に、宇宙、世界や全ての人、生物との生命の繋がりを感じ、(法華經の中で、釈迦は、今此の三界は、皆是れ我が有なり。その中の衆生悉くこれ吾が子なりと話されている。)社会を生きている一人一人がお互いを思いやり、補い合い、慈しみ合い、助け合い、(優勝劣敗、適者生存のダーウィンの進化論を人間に当てはめた、能力主義、適応主義の社会ダーウィニズムを超えて、人間は力の論理ではなく愛の論理で生きる高等生物だ。)人類の福祉と世界の恒久平和を願って叡智を働かせられる(正しい叡智のない平和主義は平和と平和で戦争するかもしれないので危ないと思う)大人社会へと進歩していくことを祈っている。
写真は昨日訪ねて行った「足なし禅師」小澤道雄師が以前住職をしていた、大垣 法永寺の萩の花です。