社会、文明の真の進歩の方向は
道元禅師は、後嵯峨上皇から紫衣を賜っても3度辞退され、最後に止むを得ずお受けになった時、
永平、谷浅しといえども
勅命の重きこと重々
却って猿鶴に笑われん
紫衣の一老翁
という偈(げ)を詠まれ、一生高閣に納めて着ることはなかった。一生墨染めの黒衣で過ごされ、名誉、利益への欲を徹底的に捨て去った道元禅師。母、伊子の父は摂政関白藤原基房公であり、名誉、利益の全てが手に入る道元禅師にして、、である。
同時代、イタリアのアッシジには聖フランシスコが宣教していた。ギリシャ、ローマ文明以降の西洋キリスト教文明では貴重な、自然を敬った聖者である。父はとても裕福な商人だったが、全てを捨ててキリストに従った。彼の生き方を表したと言われる、
「平和の祈り」
主よ、私を平和の道具とさせてください。
私に、もたらさせてください、、、
憎しみのあるところに愛を
罪のあるところに赦しを
争いのあるところに一致を
誤りのあるところに真理を
疑いのあるところに信仰を
絶望のあるところに希望を
闇のあるところに光を
悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、私に求めさせてください、、、
慰めるられるよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
「フランシスコの祈り 女子パウロ会」
例えば、人は太陽、自然がなければ生きられない。ということは、真実の自己は永遠の命、久遠の命、無量の命である自然的生命とつながっている太陽、自然ぐるみであるはずである。では、私だけよければというこの先天的に自己中心的な自我(原罪)は、本当は空であり、実態はないということになる。心という字は仏教では自然的生命を表している事が多い。悟りという漢字は吾と自然的生命(心)と一つになっていることを表している。先天的な自己中心性は一生続くのだから、一度悟ればいいというものではなく、「我、不放逸によりて正覚をいたせり」「我が滅後において波羅提木叉(別々解脱)を尊重すべし」(仏陀)「修証一如」(修行と証りは一つ)「道、窮まりなし」(道元禅師)である。現代は錯覚している、社会的な地盤でのみ思えば、不平不満が多くなる。だが、自然に生かされて生きていることに今も変わりはない。太陽、空気、水、光、大切なものは授かっている。
自己においても、集団、国家においても、自己中心性、ナショナリズムを捨てる方向に人間は進んでいかなければならない。社会の崩壊を防ぎ、平和を守っていくために。
人間の精神的な進歩、大人性の高さを目指すことこそ、社会、文明の真実の進むべき方向である。
インフルエンザに罹って、一週間寝込んでしまいました!また精進します!よろしくお願いいたします!🙏🏻🙇🏻