オンラインの関係性
3月28日、半月の帰省を終えて東京に帰ってきた。3月30、31日に初めてのゼミ活動としてゼミ合宿がオンラインで行われた。そこから僕のオンライン一人暮らし生活は始まった。
私の家には、毎月20ギガバイトまでしか使えないポケットWi-Fiがあり、このままZOOMで授業やイベントに参加するのは不可能であると考え、早急にWi-Fiを手に入れるために、コンセントに指すタイプのWi-Fiを購入した。戸建てタイプの光Wi-Fiは、工事の日程も調整が必要で、1ヶ月以上時間がかかるからだ。しかし、届いたWi-Fiの通信速度は光の4分の1程度で、ZOOMではしばしば固まってしまう程の心もとなさであった。オンライン化が進み、たくさんの人がモバイルルーターを購入した結果、使う人が増えるほど通信が遅くなる光ではないWi-Fiは日に日に通信不具合が生じるようになった。
ZOOMの共有機能を使ったプレゼンをしたときは、固まってしまった。オンライン授業開始にあたってスマホ、パソコンを持っていない学生は、自分で何かを調べたり、発信したりすることができないので、差が生じやすいというのは理解していたが、ネット環境の優劣によっても格差が開くことに改めて気づかされた。
東京に残る最初の決定をした後、私が外に出なくてよいように、実家から食料の仕送りをしてもらえることになった。30キログラムの米が2月に一度届いた時には、帰省防止策が暗に遂行されていたことが予想される。
授業は基本的にパソコンで行い、それ以外の時間も、家にいる間はスマホを操作する時間が多く、目への負荷がとても多かった。目を使いすぎると頭痛が起きて、眠れないことが多々あった。小さい頃から画面が苦手だと思っていたが、眼科にいくと、遠視であると診断された。近視に比べて気づきにくく、ずっと一人で悩んでいる人がたくさんいるそうだ。遠視用の眼鏡を買うことで楽になった。
3月28日から現在まで、約4ヶ月間、私は一人暮らしを続けている。元々一人暮らしが苦手、休みがあればすぐにでも帰省する私が、4ヶ月もの間ほとんどオフラインの接触をせずに、生活することができた。
外に出なくとも、特に異常がなかった理由
私がオンライン一人暮らし生活を始めて気づいたことが、心を正常に保つには、運動や食事、睡眠よりも、オンライン上のつながりの方が明らかに大事であるということ。正確にいうと、運動や食事、睡眠などの生活リズムを整えるためにも、つながりがとても重要であるということ。
4月は、連続して2週間も外に出なかった期間があった。それでも、その期間を乗り越えられたのは、一つにはゼミによる定期的なつながり、二つ目に、状況に応じて相談できる人を見つけられたからだ。
毎週月曜5限にゼミのメンバーとゆるく新しいソフトを使ってみたり、春学期の目標を設定したり、発表をするサブゼミがオンラインで始まっていた。これは後になって気づいたが、大きな負荷にもならず、一定の強制力のあるサブゼミは大きな心の支えであった。たとえ起きる時間が変わろうと、心情の変化があろうとも、必ずこの時間にみんなの顔が見られる。何をするでもなくみんなの顔を見るためにZOOMを開く。ちょっと面倒な顔をしてみるが、本当は毎週全員で会えることがとっても嬉しかった。
早く起きて散歩してみつけたものを共有し、夜更かしをしてしまった理由を聞いてくれるコミュニティの存在が、私にとって生活を改善、維持する上で重要であった。オンライン生活では、理由がないとわざわざzoomを開くことはまずない。効率的にみえて、なんでもないただの雑談やどうでもいい個人情報を共有する機会が失われてしまう。だからこそ、定期的に集まること自体が目的であり、他愛もない話ができるサブゼミは、お互いの生存確認と生活の維持に重要な役割を果たしていた。
突発的に誰かの声がききたくなったり、対面で人に会ってみたくなる。そこで、平日の朝から夕方は祖母、土日は両親、すべての深夜は昼夜逆転している友達というように、緊急連絡先を決定した。特に理由がなくても、不安を感じたり寂しくなったら緊急連絡先に電話し、お話をする。それだけで気持ちが安らぎ、不安はなくなった。
定期的な集まりと、気が向いた時頼れるセーフティネットが、オンラインを生き抜く要だった。
5月に入り、生活への不安はほとんどなくなっていた。その頃に、私はゼミをやめようとした。ゼミで正式に入ゼミ式をおこなってからわずか3週間のことであった。
ゼミに入る前までは物事を自分にとって有用かどうかで判断してしまうことが多々あり、合理的な理由がないと行動に踏み出せなかった。常に焦りがあって、楽しさがない生活だった。ゼミでは知らない価値観にもまれ、考え方を徐々に変えていくことができた。日常の一場面でさえ違った角度で捉えられるようになった。
少しずつ、自分がどうなりたいのか、夢をもたなければいけないという焦りが消えていくのがわかった。
いままでの、空回りする生活が変わっていく気がした。
だからこそ、せっかく変わっていく気持ちを確実なものにしようとまた焦り始めた。できるだけ多くのしたいことを一度にしようとして、ゼミとの両立ができない不安に襲われた。ゼミにコミットして成果がでなかったらどうしよう、逆に越境ができなくなったらゼミにいられるのかな など不安が立て続けに浮かんだ。
実家暮らしの時は面倒なことを思考しなくて済む環境に依存していた。一人暮らしが始まっても、膨大な選択肢が存在していたコロナ前の大学生活に比べて、自粛していれば、自分の行動を正当化できている気がしてとても心地がよかった。家にいることをコロナのせいにできた。そんな自分を変えたくて、変えるためにはすべてをいったん辞めないと集中できないとおもっていた。
関わり方を変えていく
一方で僕は現在の環境と相談しながら柔軟に適応していくというやり方を知らなかった。大切な仲間に教えてもらった。
ゼミをやめると決めてから、ゼミの仲間とビデオ通話した。物事を同時並行的に行うには、死に物狂いで頑張るか、休みを適宜とりつつ上手に向きあうという二つの選択肢があることを教えてもらった。新しいことを始めるとき、リセットするのではなく、自分の性質を考慮してどうやったら両立できるか向き合っていくことが大切であること、自分と相談しながら休むことも、長期的に見たら自分の成長につながるということ、このゼミはそれも含めて認めてくれる環境であることを教えてもらった。
すでにできあがった世界で、自分が何をするのか選ぶという前提が染みついてしまっていた。自分が関わって変えたり、自分で作り出す努力を怠っていた。
ずっと悩み続けて出した答えを変えることはとても難しいことだった。
しかし、
一度決定したことを断固として変えないことは偉いことじゃない。その場にあった最適解を常に更新していくことこそが正しい姿勢。
仲間の言葉で、ゼミで学んだこの姿勢を思い出し、決定を覆す勇気をもらった。
その後、私は一週間ゼミを休み、課題も少なくしてもらった。
相談することの本当の意義は、一人の問題を全員の問題に昇華して、全員で試行錯誤して解決していくプロセスにあるのだと知ることができた。
常に行動して思考をやめようとしない姿勢はゼミから学んだことで、必ずしも短期的な理由を求めすぎないということもゼミから学んだことだった。
自分が積極的に関わって、環境を変えていく努力。コロナの時代はさらにそれが求められるようになる。
すべてのことが試行段階で、教育機関では生徒と先生の相互的な関わりが求められる時代になってきている。
初めてのことで試す段階にある中、適応できる環境を探すのはほぼ不可能で、むしろ自分も構築に役立っていく姿勢が重要である。