ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #65
第六章 追跡:5
帆船の操船は難しい。
それは船に乗り組んでまだそれほど間のないわたしにも、身に染みて分かることだった。
帆船は機械的な動力を持たないので、とにかく風任せで運動するしか術がない。
無風では動かないし、風に真っ向から逆らって進むこともできない。
帆を開いたり畳んだり、ヤードを回す作業を慎重にこなして、きまぐれで時に横暴な風様を捕まえないとならないのだ。
もちろん、帆を畳んだり開いたり、ヤードを回して帆の角度を調節したりと言った作業は、口で言う程簡単なものではない。
何十人もの人間が心と力を合わせて、一人一人が己の頭と筋肉を頼りに進めて行かなければならない。
操帆は集団的な頭脳労働であり肉体労働なのだ。
加えて帆船は、前に進むだけでも大変なのに、ひとたび進む方向を変えるとなると、これまた想像を絶する苦労を伴う。
舵を切り横帆の角度を調整するのと同時にスパンカー(縦帆)の向きを変えて、全部の帆に最大限の風を孕ませ揚力を得られる位置を保たなければならない。
操舵と操帆のタイミングが合わないとスムーズな進路の変更は難しいのだ。
航空船の操船となれば、同じ帆船と言っても航海船に比べ更に一段と難しくなる。
こと操船に関しては、インディアナポリス号よりピグレット号の方がずーっと難しいってこった。
基本的には摩擦係数が限りなく0に近いフィールド上を、風の力を借りて滑って行くのだ。
イメージ的には、航空船と言うのは氷上を滑り続ける、カーリングのストーンみたいなものと考えて良い。
航空船は航海船と違って水の抵抗を受けないので速度が出る分舵が効かない、というより舵がない。
仕方がないので、フィールド下の横翼帆と甲板上の横帆、縦帆を駆使して進行方向の調節をすることになる。
そうしてスタッフ一丸となって風様をなだめすかしても、操船がお手上げという状態はままある。
そこで多くの航空船は貴重な外燃機関を搭載している。
外燃機関=スターリングエンジンは、ここ一番と言う時にプロペラを回す操船補助動力ということだね。
スターリングエンジンは大災厄以前の魔法遺物みたいな機械だが問題も多い。
今まで発掘されたスターリングエンジンはメンテナンスフリー、高エネルギー効率を誇る優れものながら総じて小型で出力に難点があるのだ。
その上、なんとか船に使える大型のスターリングエンジンときたら、レアものとして貴重な上当然高価だった。
大型エンジンは数に限りがあるばかりか、船以外の需要の方が切実かつ多岐にわたった。
勢い航空船への搭載には量的制限が付いた。
航空船にとっては、時に頼みの綱でもある大型のスターリングエンジンだったが、問題もあった。
出力から逆算すると、運用上ブリック・スループ艦クラスが航空艦のサイズとしては、ほぼ上限という始末だったのだ。
フリゲート艦や戦列艦みたいに質量の大きい大型艦は、操船補助動力にスターリングエンジンを使えないので、航空艦として運用ができないってこった。
艦船の動力源に限らず、高効率の外燃機関や内燃機関の発達は、工業や交通機関の発展に必要不可欠と考えられていた。
けれど現状、その開発は遅々として進んでいない。
設計はともかく、材料工学の遅れとエネルギー問題を解決するためには、まだまだ時間が掛かりそうなんだと。
ディアナのバイブル、“武装行儀見習いのための帆船生活”にそう書いてあった。
まあ、とにかく帆船と言うのは、よちよち歩きの幼児の様に、行方の定まり難い乗り物であることは確かだった。
取り分け航空船は、航海船より風まかせの要素が、うんと強いということなのさ。
だから、港に入るときは沖合で船尾に紐をつないで、桟橋まで引っ張らなければならない(繋留誘導策)。
そうして港から出るときには、パチンコで打ち出さなければならない(低速蒸気カタパルト)。
「敵艦は、ペールギュント級ブリック型スループの弐番艦ソルヴェーグ号。
確定です。
・・・敵艦に信号旗が揚がりました。
キカンノケントウヲイノル」
シンクレアさんの状況報告が聞こえた。
警戒観測と索敵の専門家であるシンクレア・カーク・マグリット兵曹長さんは、異才揃いのお姉様方の中でも群を抜いた天才肌の趣味人だ。
シンクレアさんの頭の中には、海軍時代から敵味方の信号旗、艦船の情報が全て入っているらしい。
退役後も新造艦船や想定作戦海域の海図情報を、個人的にアップデートし続けているとか。趣味的余技の中でも、絵心のあるシンクレアさん謹製の“世界の艦船図鑑”は特別で、マニア垂涎の一品ともっぱらの噂だった。
退役の時には水路部や偵察、研究セクション、はては兵学校からも海尉への昇進込みでと随分引きがあったらしい。
道楽も極めれば名人の域に達すると言う証だろう。
わたしだったら大喜びで転職するところだけれど、彼女は違った。
「メイントップ台の上が好き!」
なんですと。
シンクレアさんは今でも日がな一日、時には非番の時間もトップ台の上にいらっしゃる。
わたしは常々、この船には尊敬おくあたわずという、高機能な変人が多数棲息していると思っていた。
彼女はその中でも『極め付きだな』と目を見張る御仁の一人だったのだ。
「答礼。
キカンノブウンヲイノル」
答礼の信号旗を揚げるよう指示するブラウニング艦長は、軍務復帰を宣言してから、どこか晴れやかでのびのびした印象に変わった。
第七音羽丸でお気楽な船長稼業を続けたかったなんて言ってたけどさ。
元々はバリバリの軍人さんだものね。
まるで長い休暇が終わり、慣れ親しんだ職場に復帰してちょっぴり浮かれているオバサン、みたいな?
そんな感じが、しないでもなかった。
左舷から二百メートルほど離れたフィールド上で、全ての帆を畳み繋留策に牽引されながら後ろ向きに進む灰色の船が敵だった。
灰色の敵艦ソルベーグ号は、ピグレット号と相対しやがて静かにすれ違った。
艦上では白いセーラー服が目にも眩しい水兵さん達が、忙しそうに立ち働いていた。
入港時には見栄え良く帆を畳み直すのが、海でも空でも変わらない帆船のお作法。
ヤードの上でせっせと帆を美しく整えている彼ら彼女らの姿が、一生懸命に働く小人の様に見えて、なんだか可愛らしく思えてしまった。
海軍かぶれなディアナの影響だろうか。
後部甲板で気を付けしているのは、多分艦長さんなのだろう。
長身の士官がこちらを向いて、ほれぼれするほどカッコいい挙手の敬礼をしてよこした。
傍らにはスキッパーのカウンターパートとなるのだろうか。
大きな黒い犬、ニューファンドランドと思しき甲板犬が置物の様に控えていた。
うちのブラウニング艦長はといえば、船長用の真っ赤な上着のまま白いレースのハンカチを振っては投げキッスをしている。
艦長のことだから黒っぽい他意はないのだろう。
けれどもどこからどう見ても、意図的に敵を挑発しているようにしか思えなかった。
足元のスキッパーが尾を振るのも忘れて、口を半開きにしたまま艦長を見上げる様子が笑えた。
犬だって呆れちゃうのだ。
元老院暫定統治機構のスマートな艦長さんが、器の大きな人であれば良いな。
わたしはその時心の底からそう思った。