とも動物病院の日常と加納円の非日常
東京大空襲<承> 9
向こうに居る時は夢の中に居る様に頭がぼんやりしている。
だがその日はキスされるなどと言う驚天動地の経験をしたせいなのだろう。
白昼夢っぽい記憶が淡色なのに強い輪郭をまとって僕の脳裏に刻まれた。
僕はすっかりロマンスの主人公気取りになってしまった。
秘密があると浪漫の味わいにはコクがでる。
不思議な横穴やジュリアのことは決して誰にも漏らすまいと固く心に誓った。
翌朝も僕はいつもの様に家を出た。
寝る前には母にオハヨウ!とマタネー!を英語でどう言えば良いのかを尋ね、何度も声を出して復唱した。
外人の友達とは仲良くなったのかと聞かれた。
「もちろんだとも!」
ポチを連れたお爺さんみたいに正直に答えておいた。
母は今回の悪巧みについて興味津々の様だった。
自分の息子が嘘偽りの無い真実を述べている。
母がそのことを露ほども信じていないのは確かだった。
常日頃の悪しき行いが、僕に取って好都合に作用していた。
夏休みだからね。
悪童連は十時を回れば、やれプールだ自転車での遠征だのと毎日大はしゃぎだった。
そのまま昼を挟んで夕方までつるんでいた悪童連仲間にも、横穴とジュリアのことは秘密だ。
仲間に僕の密やかなる逢瀬を気取られる心配は無い。
夜明けから朝食の時間までは、各々の行動については絶対不干渉だったからだ。
カブトムシやクワガタムシに関わる秘密の木は神聖不可侵だ。
例え血と鉄の誓いを立て合った友垣とて、互いに神域を気取られる訳にはいかなかったのだ。
幸いにしてこの夏、トンネルに向かう途上に確保してある秘密の木は良い具合に樹液が滴っている。
仲間達から獲物の減少を根拠に朝の行動を疑われることは無かった。
いざと成ったら今年高校に進学した野戦のお師匠から授けられた秘儀。
バナナとお酒を使った虫罠を試してみるつもりだった。
だがその労も必要ない位の豊漁が連日続いていた。
目を開くとジュリアとスケベが僕の顔を覗きんでいた。
「グッモーニン」
僕は母に教えられたまま挨拶する。
少し心配してそうにも見えた彼女の顔色がパアッと明るくなり、マシンガントークが始まった。
僕は思わず笑いだしながらスケッチブックを取り出した。
“拙者は今のところ英語が全く分かり申さぬ=I don't understand English at the moment.”と書かれたページを開けて彼女に示した。
彼女は少し顔を赤らめて小さく“Sorry.”と口にした。
「ごめん」と言ったのだと思った。
それから僕たちはスケッチブックを交互にやり取りしながら、会話<絵話を続けた。
絵を介しての短いやり取りの中に、英語と日本語の単語を織り交ぜて取り留めの無い話を続けた。
森や川の話し。
好きな動物や星の話し。
不思議と互いの家族や学校など、ふたりの身辺にまつわる話題が出ることは無かった。
ジュリアを最初に見た時には妖精かと思ったと苦労して伝えた。
すると彼女は僕を指さしゴブリンかと思ったと大笑いした。
僕はおどけて一礼すると野戦バッグから不二家のフルーツチョコレートを恭しく取り出して、包みを開けた。
チョコを一つ摘まんで口元に持って行くと、ジュリアはまるで魔法をかけられたように形の良い薄桃色の唇を開いた。
その後が大変だった。
僕に通じないことは分かっていたはずなのに、彼女は大興奮で何かまくし立てていた。
薄っすらと涙ぐんですらいたのには驚いた。
僕がルックチョコでこんなに感激している人類を見たのは、後にも先にもこの時限りだった。
僕は昭和の子だから“ギブミーチョコレート”の逸話くらい知ってる。
『不二家のチョコでこんなに大喜びするなんて。
進駐軍の子女ともあろうものがいったいどうなってるんだ』
ジュリアが僕の先入観と一致しない様子を見せたことで、正直なところ面食らってしまった。
けれども“餌付けは小出しに作戦”は大成功だった訳だ。
“女子が甘味好きなのは万国共通”と言う小ネタもローカルに実証されたのだった。
そうしてふたりでやり取りをしている時、ジュリアが嬉しそうに笑うと僕も釣られて嬉しくなってしまう。
ミラーニューロンが大活躍する同調作用が、終始くすぐったくって仕方が無かった。
そのことは、セピア系の色彩にぼやけてしまった彼女まつわる記憶の中でも別格だ。
ジュリアとの喜びは、痛切な寂しさと共に懐慕の形となって胸の内にある。
『彼女も同じような気持ちでいてくれたら良いなぁ』
この歳になっても懐手で顎を摩る僕は感傷的な了見でそう思う。
痛切な寂しさを未練と言うのなら、未練と言うものは存外年月を超えるしぶとさを持つもののようだ。
楽しい時はそうでない時と比べて相対的に早く過ぎる。
同じ十分と言う時の区切りも、ジュリアと一緒に笑っているとほんの瞬きの間に思えたから不思議だ。
昨日と同様、ジュリアを呼ばわる声が遠くで聞こえた。
その日、僕は生まれて初めて名残惜しいと言う感情知った。
僕は残ったチョコを彼女に押し付けると、我知らず目を伏せた。
ふたりの間を朝にしか吹くことない涼やかな風が通り、鳥の鳴き声に葉擦れの囁きが重なった。
視線を上げると奇麗な青い瞳が僕を見つめていた。
互いの視線が絡み合いどれくらいの間そうしていただろう。
もう十分だろうと、催促するようにスケベが吠えた。
するとまるで魔法が解けたように、ジュリアははにかみを面にして優しく微笑んだ。
彼女はいきなり立ち上がると踵を返して走り出した。
彼女が林の中に消え去る瞬間「シーユー!」と僕は手を振りながら大きな声で叫んでいた。