とも動物病院の日常と加納円の非日常
東京大空襲<転> 18
「大佐殿。
コレハドウイウ事デアリマスカ?」
気色ばむ憲兵大尉の顔を冷ややかな眼差しで眺めながら、田山シニアは静かに口を開いた。
レノックス少佐が田山父子に助けられてから五日目の事だった。
「ドウモコウモナカロウ。
貴様ノ目ハ節穴カ?
コノ男ハ小官ガ捕虜ニ取ッタアメリカノ士官デアル」
憲兵大尉は顔を強張らせた。
「先日ノ空襲ノ際ニ、降下シタ敵デアリマスカ?」
「イカニモ」
「ナゼ速ヤカナル報告ガ無カッタノカ?
事ト次第ニヨッテハ軍法会議モノデスゾ!」
「貴様ハ、東京市内ノ状況ヲ知ラヌトデモ言ウノカ。
病院ハ被災シタ市民ガ優先スル。
誰モ怪我ヲシタ敵兵ヲ構ッテイル暇ナゾアルモノカ」
普段は自分の問いかけに対して口答えをするものなどいないのであろう。
淡々と言葉を返す田山シニアに対して、憲兵大尉は苛立ちを抑えきれなくなっていた。
「ソイツハ敵ダ。
国ノ仇ダ。
アメ公デスゾ。
死ノウガ生イキヨウガ怪我ナド放ッテオケバ宜シイ!
ナンナラソノ場デ引導ヲ渡シテヤルノガオ国ノ為デスゾ!」
「貴様モ法務ニ関ワル軍人デアロウ。
ジュネーブ条約ヲ知ラヌ訳デモアルマイ。
帝国ハ昭和17年1月29日ニ、ジュネーブ条約ヲ守ル意思ガアルト言ウ声明ヲ、中立国ヲ介シテ全世界ニ向カッテ知ラシメテオル」
「コノ非常時ニ畜生ニモ劣ル敵兵ニ肩入レスルノカ。
失礼ナガラ、医官ゴトキガ出ル幕デハナイ」
その憲兵大尉は、自分の背景にある権威や権力に、自己同一化し易いたちだったのだろう。
そんな勘違い人生を送っている人間が、如何にも口にしそうな高飛車な物言いだった。
「モウスグコノ戦モ終ワル。
永遠ニ続ク戦争ナドアリハシナイカラナ。
ヨッテ今ハ憎ックキ敵国デアッテモ、時ガ経テバソノ敵国同士ガ再ビ付キ合ウ日ガ来ルコトハ必定。
ソノ時、日本ガ恥ヲカカヌヨウニ捕虜ハ丁重ニ扱ウカウノダ。
ソレガ国体ノ威儀ト皇尊(すめらみこと)ノ深甚ナル御恩ヲ世界ニ知ラシメル縁トナロウ」
田山シニアが、まるで高等学校の歴史教師のように恬淡(てんたん)と語る常識論は、借り物の料簡しか持ち合わせていない憲兵大尉の神経を逆なでにした。
「戦ガ終ワル?
大佐殿ハ日本ガ負ケルト言ウノカ」
「コノ痴レ者ガ!
貴様、今ナント言ッタ。
畏(カシコ)クモ・・・」
田山シニアと憲兵大尉はまるで条件反射のように長靴(ちょうか)の踵を鳴らし直立不動の姿勢を取った。
「陛下ガ統帥アソバサレル皇軍ガ、ヨリニヨッテ負ケルトナドト口ニスルトハ。
貴様ノ赤心ハ何処ヲ向イテオル!
コノ不忠者メガ!」
田山シニアの目がギラリと光った。
何処からそんな声が出たのかと耳を疑う程の大音声で、憲兵大尉の不意を衝いた一喝が飛んだ。
「エッ?・・・大佐殿ガ戦ガ終ルト今・・・」
突然の大声による叱責は、憲兵大尉の思考の流れに大混乱を引き起こした。
田山シニアは憲兵大尉に立ち直る暇を与えず、更に畳みかける様に怒声を放った。
「小官ガイツ皇軍ノ敗北ヲ口ニシタ?
帝国勝利ノソノ暁ニ名誉アル国際的地位ヲ占メ国体ノ誉ヲ言祝グ為ニハ、国際法ノ順守ガ必要不可欠デアルト言ッタマデデアル!」
刑事が犯人の尋問に使うような簡単なレトリックだった。
だが憲兵大尉は予想外の理不尽な展開に狼狽し、反駁の糸口も掴めぬまま蒼ざめて言葉を失った。
「立川憲兵分隊マデ、間違イノ無キヨウ無傷デ捕虜ヲ連行スル。
ソレダケガ貴様ノ任務デアル!
大御心ニ沿ウヨウ自ラノ職務ヲ全ウセヨ!
東部憲兵隊司令官ノ大谷大佐ニハ小官カラモ伝エオク」
視野狭窄に狎れ夜郎自大を地で行く憲兵大尉は、田山シニアの大仰な言いようにすっかり圧倒されてしまった。
大尉は強張った表情のまま部下の下士官に見当外れな罵声を浴びせながら、あたふたと護送の準備を始めた。
「空襲から日数も経った。
憲兵隊の連中も少しは頭が冷えているだろう。
さすがに問答無用で処刑と言う事も無いと信じたい。
気の毒だが私にできるのはここまでだ。
幸運を祈る」
憲兵大尉に対してとは打って変わって、いつもの様に冷静で穏やかな声だった。
どこか母方の祖父を連想させる田山シニアのボストンなまりが、囁くようにレノックス少佐の耳朶を打った。
スキッパーとの別れは憲兵がやってくる前に済ませていた。
田山父子はそれが予め決まっていた事のように、スキッパーの面倒を見ることをレノックス少佐に約束した。
スキッパーもまたそれが当然の様な顔をして田山家の日常に溶け込んだ。
レノックス少佐が「じゃあ元気でな」と手を振れば、スキッパーは「おまえもな」と一声吠えて尻尾を揺らした。
数奇ともいえる運命の細道を辿り、こうしてスキッパーはニホンで暮すことと成った。
スキッパーは老婦人に万感の敬意を示す為、彼女に目を合わせて勢いよく尻尾を振った。
老婦人はスキッパーの頭を撫でると何事かをつぶやき、そめを入れたキャリーを手にして病院の玄関に向かった。
ホモサピの若造が神妙な顔つきで扉を開けて彼女を見送り、大きなため息を吐いた。
『パイの小僧め。
お前さんの間抜けぶりにはほとほと呆れかえる思いだぜ。
婆さんが渦中にいた1945年3月10日の東京大空襲は、俺様を仲立ちにして実はお前さんともつながって居るんだぜ。
今でも信じられない思いだが、何か理屈では説明できない不思議なめぐり合わせだったのだろうよ。
1942年の夏。
イングランドで俺様はまだガキだったお前さんと確かに出会ってる。
あの時おまえさんに何が起きて過去にやって来たのか。
そうしてジュリアと知り合うことになったのか。
どうしてそこに俺様が行き会わせたのか。
さすがの俺様にもさっぱり見当がつかん。
俺様はその時分世話になっていた相棒に連れられて、はるばる日本までやってきて今ここにいるわけだ。
ホモサピはそれを有為転変とか言うらしいがな。
あるいはそのことは、お前さんとあの時代で出会ったことと何か関係があるのかもしれんが、どうだろう』
スキッパーはパイのいかにも屈託が無さそうなのんしゃらんとした顔に向かって独り言ちた。
半世紀近く前のこと。
スキッパーはまだ少女だった老婦人が逃げ惑った、紅蓮の炎と膨れ上がる熱風が狂奔する街の上空に居た。
少女の街に焼夷弾をばらまくB29の一機に確かに搭乗していたのだ。
スキッパーは、短命なホモサピと自分に委ねられた歳月の事を考えた。
そして何事も知り急ぐ必要はないのだとあらためて思い定めた。
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