
ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #9
第一章 解帆:9
「煮えたぎったお湯っす。
それからこれ、主計長からの差し入れっす」
アキコさんが大きな薬罐を右手、ミツコシマーケットのペーパーバックを左手にぶら下げて戻ってきた。
おお、ステラさん謹製のマドレーヌにお砂糖とレモンの濃縮ジュースじゃない。
司厨長としては随分気前いいな」
クララさんがペーパーバックを覗き込んで感に堪えぬと言う顔で、アキコさんに笑いかけた。
「なんか予定変更とかで、近々どっかに入港らしいっす。
新しい仕込みができそうだとかで在庫一掃ちゅうってこってす。
で、腐れ***が半端ものをくれてやるとおっしゃって掌砲長にって、そいつを投げてよこしたっす。
あの性悪な雌豚のこってす。
何か裏があるにちがいありやせんがね」
「主計長がそんな言い回しをするなんてありえない。
あんたがいにしえのお姫さまだったってほうがまだリアリティあるよ。
それにステラさんのことを雌豚だなんて。
あんた本当に今すぐにでも天罰が下るよ?」
クララさんが一転、げっそり顔で天を仰いだ。
「もちろんっす。
今のはいたいけな小娘がついうっかり口にした他愛のないジョークっす。
本気にしちゃ嫌ですぜ、掌砲長。
でも自分は見てくれだけで良いって仰せであれば、今この時から殿中だろうが宮中だろうが王宮だろうが、仁義切って立派な姫御是として番張っておみせするっす!」
『アキコさーんあの厳格なおじさまや優しいおばさまがこの場にいらっしゃったら泡吹いてひっくりかえりますよー』
アキコさんは近在で一番大きな貿易商の一人娘さんなのに。
初等学校や中等学校時代はあんなにお淑やかで上品だったのに。
いったいぜんたい武装行儀見習いの奉公一年で、深窓のご令嬢に何が起きたと言うのでせうか。
『わたしってば一年後の自分が今から心配ですぅ』
それがわたしの嘘偽らざる真っ正直な不安だった。
クララさんは甲板中央の通路部分に乗り出すと船尾のほうに手を振った。
火を使う関係で烹炊所はスターリングエンジンの横にあったので、わたしたちのテーブルより船尾寄りになる。
ステラ・グラハム・キョウヅカ海佐は肩書で言えば、事務長兼主計長であり司厨長でもある。おまけに軍医の資格まで持っているスーパーエリートおねえさまなのだった。
しかし生のステラさんと言えば、ふっくらと優しそうな容姿そのままの女性だった。
艦長たちと年が近い所為もあってか、第七音羽丸のおかあさんという位置付けでみんなを存分に甘やかしていた。
食料や生活用品に始まって各種機材の調達、乗員の人事やお給金の支払い、スイープしたお宝の売却まで。
とにかく船を出入りするものはお金でも人でも何でも、ステラさんの記録する帳簿類の上で厳密に管理されていた。
おまけに美味しいごはんやステラ印のマドレーヌみたいなおやつだって作ってくださる。
みんなの医学的な健康管理だって完璧にこなしているのだから、ステラさん無しではこの船はまるで立ち行かないと言うことに成る。
マリアさんには絶対内緒だが、この船は船長や副長が居なくてもステラさんさえいれば十分にやっていけるのではと、新参者のわたしですら思っていた。
『そんなステラさんを冗談でも雌豚だなんて。アキコさんが人の心をすっかり無くしてしまったのは最早確定だわね』
大きく手を振るクララさんに答えて、湯気が上がる烹炊所でまんまるお母さん顔のステラさんが、ニコニコしながら小さくお玉を振っていた。
お夕食が楽しみだった。
『アキコさーんステラさんは腐れ何とかという単語の存在さえご存じないかもしれませんよ?』
「寄り道するって。
そりゃあれかい。
お昼にアリーが後甲板でボースン(掌帆長)を笑わせていたあれに関係してるってこと?」
「多分です。
あれにゃー、掌帆長の天使の微笑みにゃー、自分も心底びびりました。
ちょこっと小さい方ちびっちまったくらいっす。こう言っちゃなんですが、あんとき掌帆長のセクシーなけつに、先の尖った黒い尻尾がピッておっ立ったのを、あっしはこの目で確かに見ましたぜ」
ふたりの顔が同時にわたしの方を向いた。
「で?どんな話だったのか勿論みんなにも話してくれるよね?
おねいさん、とっても、とっても聞きたい」
「おい、この腐れ阿魔!
ことの次第は上下左右前後の果てまで“かくかくしかじかでございます”と、おねーさま方にきりきり白状しちまいな。
聞き分け良く口を割らねーってんなら“お姉さまどうぞ勘弁してくださいまし”と、泣きが入るまで存分にいたぶり倒して、ベガスの淫売宿に売り飛ばすぞ、コラ!」
嬉しそうに言揚げると、ヒヒヒと下卑た笑い声を上げながら、アキコさんはわたしのことを羽交い絞めにした。
さすが、やんごとなき良家のご息女と言えど、武装行儀見習い二年目ともなれば筋肉の発達だって半端じゃなかった。
わたしはがっちりホールドされてまるで身動きが取れなくなった。
『小さいころからアリーちゃん、アリーちゃんって、自分が一人っ子のせいか、わたしをまるで実の妹の様に可愛がってくれた、あの上品で優しかった幼馴染のアキねーたんは、どこ行ったの?』
「まあまあ、アキちゃん落ち着いて」
クララさんは気のない困り顔で、取って付けたようにアキコさんをたしなめた。
「それもこれも、アリーちゃんのお考え次第ということよ?
ここでだんまり決め込まれちゃ、おねいさんもアキちゃんの熱意を不都合とは思えなくなるわね」
『えーっ、まじっすか。遺憾ながらこんな貧乳幼児体形、一山いくらで値を付けたとしたって、場末の女郎屋にすら売れるかどうか、ですよ?』
「もうー、御冗談ばっかりおねーさま方ったら。
ちゃんとお話ししますって。
裏も表もないありのままの真実を包み隠さずそれこそ隅から隅まで、ずずずいーっと、お話ししますですよ。
それが、なんだか要領得ない話なんですけどねー」
わたしは早速白旗を揚げて恭順の意を示した。スキッパーなら仰向けになってお腹を晒し、それで足りなければちぎれんばかりに尻尾を振るところだったろう。
元々秘密にするつもりも無かったのだが。