ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #36
第三章 英雄:6
レベッカは兵学校で一年先輩だったチェスターを、常に視界か脳裏の片隅に置いて日々の勉学に励んだ。
そうしてレベッカは、チェスターの傍らに在る自分の将来を見据えて、兵学校における自分の“
べきべからず”を厳格に決めて行った。
一例を上げれば、親しくなった女友達との甘味付き合いすらほどほどにして、学業に専念することを肝に銘じた。
下級生にも漏れ聞こえてくるチェスターの秀才ぶりを考えると、彼の近くに居場所を求めるには、優秀な成績を収め続けることが必須と思えたのだ。
暇さえあればチェスターに接近してその人となりを観察し、時には迷える後輩を装って訓練や座学の悩みを相談したりもした。
レベッカ自身は周到な計画のもとにチェスターと接触しているつもりでいた。
ところが傍から見れば、先輩にまとわり付く恋する下級生にしか見えないのが、痛々しいところだった。
そうしたことだから時を経ずして、レベッカの標的がチェスターであることは、二人を知る者にとっては周知の事実になった。
とりわけ、いささか常軌を逸したレベッカの言動を詳しく知る友人達は、彼女のストーカーめいた執着心を面白がるより先に心配したものだった。
レベッカは極めて魅力的な容姿に恵まれていた。
学園生活の流れとして、彼女のチェスター事情を良く知らない同級生や上級生、そして自信過剰気味の下級生が、男女問わず度々アプローチを仕掛けてくる。
それは、ほとんどお約束の事象だったが、レベッカの恋愛にまつわる関心は、チェスターただひとりに捧げられていた。
彼女に言わせればその他の有象無象には塵芥ほどの価値も無いのであった。
学年が進むうち、新入生以外にはレベッカのチェスター至上主義が広く知れ渡った。
だが、首を傾げた者も少なくはなかった。
容姿端麗で成績優秀かつ家柄も良いレベッカがである。
そんな才媛属性を装備した淑女が、それほどまでにぞっこん惚れ込むほどの人間だろうかと、チェスターを怪しんだのだ。
なんとなればハンモックナンバーは常にトップではある。
地味だが親切で敵はいない。
しかしながら、茫洋としてつかみどころのないチェスターの人となりは、ただ『不可解』とされていたからだ。
なんのことはない。
後にぼんくらと評されるようになる飄々としたありさまは、学生時代にもうチェスターの人柄として広く認識されていたのだ。
レベッカは外野から聞こえてくる危惧に耳を貸すことは一切無かった。
“レベッカのツボ”と揶揄された彼女のチェスター至上主義というイズムは、学窓にある頃から現在に至るまで、寸分も揺らぐことはなかった。
端からみれば恋する乙女そのものであるレベッカではあった。
そうではあったが面白いことに、彼女は男女の生物学的かつ心理学的な関係を発展させるための積極的行動を、チェスター本人に仕掛けることは絶えてなかった。
自ら告白することも、恵まれた容姿を武器に攻勢に出ることもなく、淡々と日常を過ごした。
網を張り静かに包囲してチェスターの全てを絡めとる。
レベッカはチェスターの一部ではなく、頭の天辺から足の先まで、外身も中身も、文字通り全身全霊が欲しかったのだ。
その大目標を遂げるべくこの十年。
一日たりとも休むことなく、常に彼の背後に立つレベッカだった。
レベッカは兵学校をハンモックナンバーのトップ、即ち主席で卒業する見込みが立つと、次の段階に計画を進めた。
十人委員会に所属する父親のコネを存分に利用する、かねてよりのプランを実行に移したのだ。
レベッカは実に用意周到だった。
自分の望みを適えるため、彼女は一年次の頃から学期休みを利用しては、父親の身辺調査をえげつなく行っていた。
計画遂行のため有用な脅迫の種を仕込んでおいたのだ。
父親は父親なりにバイロン家令嬢の将来像を思案していた。
しかしレベッカは卒業後の任官から配置の人事まで、脅迫の種を自在に使いこなし、父親にとっては想定外の我を押し通した。
娘に知られたというだけでも死にたくなるような個人情報をちらつかされた憐れな父親には、文字通り抗う術もなかった。
脅迫と言う名の交渉の大詰めでは、顎をふるわせ上目使いで涙ぐむという卑怯千万な必殺技まで駆使して、レベッカは父親を操った。
そうして海軍における父親の影響力を慎重かつあこぎに利用して、陸(おか)でも艦上でも、常にチェスターと顔突き合わせる配置となるよう人事に手を回したのだった。
チェスターの履歴を取り寄せて、生まれはともかく育ちが悪いと、脅迫に屈した後も最初の内は娘の願い事に渋い顔をして極力抵抗した父親だった。
だが、頑迷なだけでは魑魅魍魎の跋扈する十人委員会で、人がましい地位を維持などできやしない。
レベッカの父親はバランス感覚に優れ、骨董の目利きの様に人を見る目が肥えた人間だったのだ。
そんな父親だったからだろう。
いつしか賢く冷静な愛娘の、チェスターにたいする異常なまでの執着が、どうにも気になってしょうがなくなった。
海軍の友人にそれとなく探りを入れたところ、部内でのチェスターの将来性が既に折り紙付きであること知った。
そのこともあったろう。
家柄だ育ちだと昨今流行りの色眼鏡で若者を評価しようとしていた自分が、ふと、とてつもなく大間抜けな俗物に思えてきた。
振り返って見れば、レベッカは幼いころから自分の出自をわきまえた賢い娘だった。
そんな娘がどこの馬の骨とも知らぬサンピンに入れあげるとは正直考えにくい。
そこで自分の偏見を内心で恥じながらもなお、気乗りしない体を装いつつ娘の願いを聞き入れてみせることにしたのだった。
愛娘から脅迫を受けてのこととはいえ、自分が腰を上げた以上は抜かりがあってはならない。
賤(いや)しくも十人委員会に名を連ね権謀術数渦巻く権力の中枢で生き残ってきた父親である。
海軍の人事に介入すると決めたからには、娘の眼力を冷徹に検証すべく手持ちの影響力を行使してそれなりの人物調査も勿論のこと怠らなかった。
結論として、チェスターは友人の言以上に有能かつ有望な士官であることが分かった。
一年次からハンモックナンバーのトップを維持し続けたのは称賛に価した。
それにも増して人間的に面白そうな青年であり、身辺も呆れるほど身綺麗であることが判明した。
娘にとっては好ましいことだったが、自分の来し方を振り返ってみれば、『この青年はもう少し遊んでも良いのでは』と伊達男の老婆心が騒いだ。
閨閥を組んで権力基盤の一助にできる血縁を待たない事だけがチェスターの欠点と言えた。
それでも将来性を考えれば、バイロン家の新しいフロントラインに立つ切り込み隊長として使えそうな気がした。
親類縁者のコネだけが頼りと言う、二世三世のアホヅラには見飽きていたこともあった。
この男を逃す手はない。
政治家の直感がそう囁いた。
息子を持たなかったせいもあるのだろう。
既にチェスターをレベッカの婿として考えている自分に気付き、驚きあきれもした。
ワクワクしている自分がなんだか恥ずかしくもあった。
ここまで気分が盛り上がると娘にでかしたと、声を掛けてやりたいくらいだったがそれはそれ。
あくまで表向きは渋々嫌々を装い、内実は用意周到に、チェスターと娘の未来を見据えた上で海軍人事に介入したことだった。
目論見通りにことが成り『お父様本当に有り難う!』と頬にレベッカのキスをもらった時には思わず嬉しくなって、『おや俺も人の親であったか』と少しく感激もした。
時がたち、息子のいない自分にとって、チェスターが愛娘の成長と並ぶ新たな楽しみに成りつつあることに気付いたときには、さすがに苦笑いが出た。
そんなこんなで、チェスターの預かり知らぬところで様々な決定が下され執行された。
レベッカが兵学校を卒業して任官した後も、チェスターと密着した配置の設定と誘導は、十人委員会案件として慎重に施されていくことになったのだった。