ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #69
第六章 追跡:9
当直の班分けは戦闘任務を視野に入れると困難を極めたようだ。
圧倒的に人員が足りなかったのだ。
本来の定員が百名のところ今は三十六人しか乗り組んでいないのだ。
まあ、大砲は正規の兵装なら十二門のところ、現在は二門しか搭載していないしね。
わたしとディアナ以外は予備役のベテラン水兵さんだから、何とかやっていけるらしかったけどさ。
当面左舷直と右舷直が廃止されて、艦長と副長、船匠に主計長を除いた三十二名を三班に分けて、当直のローテーションが組まれることになった。
四時間当直について八時間非番というパターンは従来通りだった。
もちろん、上手回しみたいにタックを変えるため大人数の人手が必要な時や、大がかりな展帆や縮帆の際には総員配置が命じられた。
特に天候が悪化した状況や会敵時には、昼夜ぶっ通しの作業になるだろうと教えられた。
わたしとディアナは、クララ・コーダ・マツシマ掌砲長が班長を務める、第二班に配属された。
ピグレット号はプリンスエドワード島を離れてやがて外洋に出た。
それまで順風となって後ろから吹いていた気持ちの良い陸風に、別れを告げる時がきたのだ。
そうして今度は、進路方向から逆向きに吹いてくる南の風に対して、いっぱいに帆を開いて航走を始めた。
いわゆる詰め開き=クローズホールドと呼ばれる帆走方だった。
帆船は、先ほど島を離れた時のように、少し斜め後ろの方から風を受けて帆走すると、それこそ絶好調の走りを見せる。
そういう帆走をランニングという。
けれども、目的地がいつでも風下にある訳じゃないのは当たり前のことだ。
時には風に真っ向逆らって帆走しなきゃならい局面だってある。
さすがに正面から風を受けて進むのは不可能だけどね。
帆をいっぱいに開けば、船は風上に対して最大七十度ほどの角度で切り上がることができる。これをクローズホールドという。
風上に向かうと言っても斜めに進んでいくわけだから、そのままじゃ目的地の方向からどんどんズレてしまう。
そこで時々帆の開き(タック)を変えて、左から右、あるいは右から左へとジグザグに進路を変える必要が出てくる。
そうやって船の向きを、目的地の方向へと修正するのだね。
ビジュアル的には登山道を思い浮かべてもらうと良い。
登山道は普通、斜面を一直線に登る急な坂道としては作られていない。
つづら折れなんて言うように、斜面に沿って時々折り返しながら頂上に向かう。
つづら折れは、緩やかな坂道になっていることが多いはずだ。
一直線より距離は長くなるけれど、ジグザグに進めば頂上まで楽に行けるってこった。
ジグザグに航走するため、帆の開き(タック)を変えて進路を変更する方法には、上手回しと下手回しがある。
上手回し、下手回しと言葉にすれば簡単だけど、この操帆がくせ者で、艦長以下クルーの技量と練度が如実に表れる。
正にその艦の腕の見せ所だったりする。
下手回しは比較的簡単で、上手回しに比べると少ない人手で実行できる。
その代わりと言ってはなんだが、広い航走面と長い作業時間が必要になる。
軍艦では何と言っても、素早く進路変更ができる上手回しが基本となる。
上手回しは、多くの人手が必要だしタイミングを取るのも難しいけれどね。
上手回しではタック(帆の開き)を変えるタイミングを誤ると大変なことになる。
もたもたしていると帆は正面から風を受けてしまう。
その結果、船は行き足を失って速度が落ちるばかりか停止したり、最悪の場合には風下に向かって逆送することだってあるのだ。
接敵中の艦隊運動で上手回しに失敗した艦長なぞは、即座に解任の上軍法会議ものだろう。
ピグレット号はとても人間業とは思えない難しげな上手回しを何度も楽々とこなして、マンハッタン島に向かってジグザグ航走中だった。
マンハッタン島は次の目的地ね。
ディアナに言わせれば、操船要覧に書いてあるS級操帆操舵技術をピグレット号のクルーが持っているのは確かなことだそうな。
まだピグレット号が第七音羽丸だった頃、お姉様の誰かが『人手が足りないから上手回しなんて無理無理~』なんて言っていたけれど、どうしてなかなか。
やればできる娘さん達だったわけだ。
ピグレット号のクルーは変な人ばかりだけど、船を操る姿を見る限り、みな船乗りとしてはとても優秀。
そのことに改めて気付かされたよ。
「来る日も来る日も、暇なときはこうしてまいはだ作りに精を出したり、甲板を磨いたり、繕いものしたり。
こんなんじゃ武装行儀見習いの頃と全然変わらないじゃない。
人手が減った分下っ端の仕事はかえって忙しい位よ?
士官候補生ってほら、あなたのカレ。
タケちゃんだっけ?
彼みたいに、もう少し颯爽(さっそう)とした何かないわけ?
小粋な制服とか、士官食堂でのディナーとか。ホントにこれが、ダイ憧れの士官候補生ってやつなの?」
わたしは甲板に足を投げ出し、ディアナと二人で最早ノルマと化した退屈な日課の作業をこなしていた。
「タケオ・アンダーソン・カナリス士官候補生!
タケちゃんだなんて気安く呼んで欲しく無い。私はともかくアリーは員数外のお荷物。
タケオさんは光輝く本職。
呼び名は同じ士官候補生でも彼とアリーとでは月とスッポン。
士官候補生もどきのあなたと比べるのは失礼千万。
それからムター士官候補生。
私はあなたより先任。
小官のことは謹んでバーリー分隊士とお呼び!」
「へっ?
バーリー、なに?」
「分隊士。
士官候補生分隊の隊長は私。
私はあなたの上官。
あなたは私の部下。
これは上官の命令」
「はっ!
バーリー分隊士殿。
謹んで拝命いたします」
わたしは直立してディアナに敬礼した。
「バーリー分隊士。
なんて耳に心地よい響き。
もう、トラファルガーでもミッドウエーでもユトランドでも、何処へでも行けそう」
なんだか気色悪い顔で軽くイッテいるディアナの頭頂に、わたしの鉄拳が炸裂した。
そのまま頭を抱えたディアナは.甲板にうずくまった。
「なんで、わたしがあなたの部下な訳?
ダイはそのおつむの中で、発酵と言うよりはむしろ腐敗しかけているミリオタな妄想に、早いとこけりをつけた方が身の為だと思うわ」
「暴力反対。
アリーは軍人となって、狂戦士並みの暴力装置と化した」
ディアナができたてホヤホヤのたんこぶをさすりながら、涙目になって口を尖らせた。
「誰が軍人よ。
狂戦士ってなに?
本当に冗談じゃないわ。
任務だなんて糞喰らえよ。
マンハッタン島に着いたら何が何でも除隊してやる。
それが駄目なら脱走よ。
このままなし崩し的にアナポに行くなんて、ぜーったいにイヤ!」
そうできたら本当に良いのになと、わたしは内心寂しく思った。
それでも、こうして同輩とじゃれあうことのできる今の自分を、見失いたくはなかった。
「こんなにしょっちゅうポンポンと頭をぶたれたら私、変な人になっちゃうかも知れない」
頭の天辺に握りしめた両の拳を乗せて、ディアナはわたしの決意表明を一顧だにすることなく軽くスルーした。
「安心なさい。
ダイはどこから見たってもう十分過ぎるほど変な人よ」
「それは大変。
とすると、アリーも海軍から足抜けできないことは必定」
わたしは朗らかに引導を渡してやったつもりだった。
ところがディアナときたら、すかさず本当に訳の分からない、いっそシュールとも言える斜め上の口答えを、お得意のニヤリ笑いと共にかましてきた。
「あなたが変な人であることと、わたしが海軍から逃げ出せないということの間に、どのような因果関係があるというの?」
ディアナは、突然表情を殺して真面目くさった顔になると背筋を伸ばした。
「それは秘密」
何かを教え諭すような雰囲気で作業を再開しながらそボソッと言った。
「あなたねぇ。
その変てこな頭のまわり具合に、もう少し磨きを掛けて差し上げようかしら?」
わたしが拳を作ってファイティングポーズを決めると、背後から声が掛かった。