垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達~
第18話 アプレゲールと呼んでくれ 1
セルビアで響く一発の銃声から世界大戦が始まった。
などと言う、この場には全く似つかわしくないフレーズが、針飛びを起こしたレコードのように、何度も繰り返し円の脳裏に流れる。
春以来散々な目に遭ってきた円だ。
『僕の修羅場慣れも既に熟練の域だよ』
などと少しく高も括っていた。
だが、たった今目の前で起きた出来事に、円はまったく成す術もない。
手や足が出るどころか達者な口の出番すらない。
広い芝庭を照らす常夜灯の光に浮き上がる情景には、まるで現実感を感じられなかった。
芝生に倒れ伏しながらも頭を少しもたげて、震える声を精一杯振り絞ろうとしている。
そんな大好きなお姉さんの表情の意味するところが、円には全く理解できなくなっている。
「・・・空へ・・・逃げて」
そう聞こえたような気がする。
彼女に向ってぎこちなく足を一歩踏み出したところで、すすり泣く声と小刻みに震える暖かな重みが背中に掛かる。
「・・・でも、橘さんが、佐那子さんが」
かろうじて唇から漏れ出るのは、口の中が乾き切ってしゃがれる無意味な言葉だった。
そのかすれた小さな声を押しのけ覆いかぶさるようにルーシーが叫ぶ。
円のためにありったけの力をかき集めたルーシーの悲鳴が響き薄闇に吸い込まれていく。
「だめー!
マドカ!
だめー!」
背後から胸の前に腕が回され、細く華奢な指がジャケットの前合わせを鷲掴みにする。
後方にのけぞる形でルーシーの渾身の力と全体重が円を引き止める。
円の身体はやや前傾姿勢を取ったまま、ルーシーが振り絞る必死の力と拮抗する。
佐那子は仰向けになり、空を指差しながら声にならない声を出している。
左那子の後方には、視線を落とし俯き加減になった長身の人影が、全身の力を抜いて立っている。
ルーシーの叫び声に反応したのだろうか。
それとも次の仕事を片付けるつもりに成ったのだろうか。
その人影は肩を揺らしてゆっくり顔を上げる。
顔を上げた後、闇に沈む遠景の中に見える何かを指し示すような。
そんな素振りで、静かに右の腕を上げる。
右手には今し方佐那子に向けて、二回発砲された拳銃が握られている。
常夜灯は倒れてもなお円を守ろうとする佐那子を生々しく照らす。
拳銃を握る人影は左那子に冷たい光を投げ掛ける常夜灯を背負って佇む。
人影は最初の発砲の後で少し位置を変えたろうか。
常夜灯の沃素ランプは生気のない夕日に似る。
その暗橙色の逆光で表情は分からない。
だがその人影が面に楽しそうな笑顔を浮かべている。
それだけは円にもはっきりと分かった。
『・・・南部の十四年式拳銃かも。
あんな骨董品、何処から引っ張り出してきたんだろ?』
逆光なのではっきりと見えはしない。
だが人影の手に握られた拳銃の型式が円にはそう思えた。
円の頭は今そこにある危機を認識している。
それにも関わらず、危機感に恐怖や嫌悪と言った感情のタグ付けをすることができなくなっている。
左那子にはあれほど注意され、身体化するまでシミュレーションも重ねてきた。
だが能力を使って避退すると言う選択は、円の思考からきれいさっぱり消し飛んでいる。
都合が良いことに、こうしてルーシーが身体を密着させているにも拘わらずだ。
最も能力行使云々と言うことであればルーシーも円とご同様だった。
こんな局面だと言うのにルーシーも能力を使っていない。
華奢な筋肉と上背の割には少なめの体重だけを使って、円を引き戻そうと奮闘している。
現実の意外性を侮っていた円だった。
危機管理について佐那子に頼り過ぎ、らしくもなく慎重さを欠いたルーシーだった。
予想だにしなかった最悪の展開が目の前にある。
佐那子の時と同じ乾いた銃声が再び冷たい闇を突き破る。
円への弾着が最近めっきり背が伸びたその身体を振動させた。
ルーシーの悲痛な金切り声が、夜の静寂(しじま)を切り裂く。