とも動物病院の日常と加納円の非日常
東京大空襲<転> 12
「なあ、スキッパー。
変人なんてどこの国にも居るもんだな」
『あんたもな!
あんただってあのドクターに負けず劣らず相当変だぜ!』
スキッパーはすかさず心の中でツッコミを入れた。
レノックス少佐はドクター田山の「後で迎えを寄こす」と言う言葉を少しも疑うことがなかった。
少佐はドクターの忠告通り、痛みのない右足だけでそろそろと後ずさりして藪の中に身を隠した。
スキッパーはと言えば、ホモサピそれも敵国の者をそう易々と信じることなどできなかった。
頭は良いのにお坊ちゃん育ちで、どこか抜けたところのある相棒である。
ここは自分が一肌脱がねばなるまい。
スキッパーはため息をつくと、一声少佐に声がけをしてから偵察に出ることにした。
スキッパーは状況の観察と分析については、ひとかどの見識を持ったカニファミと自負していた。
しばらく周囲を嗅ぎまわってみたところ案の定、分かったことがある。
日本の田園はイギリスやアメリカのそれとはまったく異質の相貌を持ち、未知の要素で溢れ返っているのだ。
嗅覚を通して入力される情報の共通性がほとんど無い。
土の匂いや動植物の臭いは初めてのものばかりだった。
ホモサピの臭気や生活の気配まで憶えの無いものばかりで戸惑いを感じる。
今まで蓄積してきた記憶との相互参照が成り立たない。
新たなサンプリングと分類には相当な時間がかかりそうだった。
ただ土臭いばかりの、現時点では作物がまったく植わっていない広いフィールドは田んぼと呼ばれている。
田んぼには春になると水が張られて、米と言う穀類が栽培される。
そうした農業の形は後で知った。
冬でもそれなりの緑が風景を彩るイングランドとは全く共通性がない。
砂と貧相な草が生えるだけのアリゾナとは似ても似つかない。
この地では常緑樹の香りと松柏類のものと思しき花粉の刺激だけがしつこく鼻を衝いた。
ざっと見回した周辺と風上に人の気配はない。
見通しの範囲内には深夜のこととて人家の灯かりすら目に入らなかった。
もっとも灯火管制は徹底されているだろう。
今夜に限らず街灯はもとより光を頼りに住民の存在を窺い知ることは難しかったろう。
スキッパーは精一杯嗅覚に頼った探査を続けた。
だが北風が強いこともあり分析不可能な要素が多すぎた。
スキッパーの当初の意気込みは残念なことに空回りに終わった。
一時間も経った頃だろうか。
ドクター田山がやって来た方向から、なにやらガラガラ言う音が聞こえて来た。
音源と思しき辺りに目を凝らすと、先ほど見たような提灯らしき灯かりがぼんやりと揺れている。
スキッパーにはそれが、こちらに向かって徐々に近付いて来るのが分かった。
接敵の予感にスキッパーの心拍は跳ね上がった。
頭脳派を自認するスキッパーである。
直接的な戦闘行動にはあまり自信が無い。
自信はないが、嫌も応も無く接近するアンノウンに対処するより他、選択肢は無かった。
レノックス少佐との友情を考えれば、これも浮世の義理というものだろう。
スキッパーには情弱な友を見捨てることはできなかった。
スキッパーは退路をしっかり考えてから、恐る恐る道の真ん中に立ちはだかってみた。
スキッパーは常々石橋を叩いて人に渡らせることを信条とするカニファミだった。
深夜と言う時間帯とこれまでの成り行きから考えれば、音と灯はドクター田山の息子である公算が高い。
希望的観測かも知れないが、スキッパーはそう判断して通せんぼした。
もし予想が違えば警戒の吠え声を発しながら退避する。
敵の目を逸らすため、少佐の隠れている場所からは明後日の方角に向かって走り出すつもりだった。
いくら日本人が野蛮だとしても、逃げ去るいたいけな小型犬をいきなりライフルで撃ち殺すことは無かろう。
スキッパーは文明人の範疇に入りそうなニホンジンの良識に望みを賭けた。
「オッ!犬ガイル。
・・・君はスキッパーだね。
本当ニ犬連レナンダ!」
そこにはドクター田山に似た匂いがする背のひょろ長い青年がいた。
青年は提灯をかざして、道の真ん中で踏ん張るスキッパーに話しかけてきた。
「心配しないでスキッパー。
僕をレノックス少佐の所に案内してくれるかい?」
英語はドクター田山よりこなれていた。
この若いホモサピからもドクターと同様やはり敵意や緊張は感じ取れなかった。
スキッパーとしては肩透かしを食ったかのような感じだった。
敵地で出会ったホモサピが何れも流ちょうに英語を操り、怯えも怒りも憎しみも表にまるで見えてこない。
スキッパーが日本の犬ならば『狐につままれたような気分』だと今の自分を表現したろう。
田山親子が特別に変な日本人なのか。
あるいは日本人がすべからく持つのほほんとした国民性故なのか。
スキッパーは新聞の記事や米国産のホモサピ達の会話を改めて思い起こしてみた。
そこから伺い知れる大陸や島嶼における日本兵の行状を考えればどうだろう。
そこには知性と教養に欠ける野蛮人の姿しか見えてこない。
とすれば迷うまでも無くこいつら田山父子だけが、ものすごく変な日本産ホモサピなのだ。
そのことに疑いの余地はなさそうだった。
スキッパーは挨拶代わりに尾を振った。
それから一声吠えて、レノックス少佐の元へ案内すると田山ジュニアに伝えた。
田山ジュニアがガラガラと引き摺ってきたのは、木でできた二輪の運搬機械だった。
その運搬機械が大八車と呼ばれているのは後から知った。
動力は見たままの通り人力で、ロバや馬を利用する構造ではなさそうだった。
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