垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達~
第18話 アプレゲールと呼んでくれ 31
大学通りには地味なセダンが駐車してあった。
円とルーシーは促されて後部座席に乗り込まされる。
今は質問を許さないという男の言葉にはどこか年季を積んだ凄みが感じられた。
たとえ双葉のことが無くても、ふたりには逆らうことが難しかったかもしれない。
男の手筈は周到だったのだろう。
ロージナを出てから車に乗り込むまでのこと。
いつもなら、さり気なく存在をアピールしてくる佐那子の手下の皆さんが全く見当たらない。
双葉のことは身体に震えがくるほど心配だ。
だが、ふたりとしてはいつもお世話になっている手下の皆さんの身も案じられる。
実のところ円とルーシーはふたりとも、自分たち自身の身の危険についてはほとんど頓着していない。
いざとなれば、今はほぼ自由自在に使えるようになった飛行能力が威力を発揮するはずだ。
ふたりが一緒でありさえすれば、なんとかなることは分かっている。
『ふたりで抱き合えば、世界の何処へだって飛んで行ける』
ルーシーは逃避行ならぬ逃飛行のもたらすスリルをちょっと楽しみにしている。
ふとそのことに気が付いて、我ながら不謹慎とあわてて自分を諫める。
ふたりが後部座席に収まると男はアイマスクを取り出した。
「アイマスクをつけたら目的地に着くまでは大人しくしていなさい」
男は穏かな口調で命じる。
口調は優しげだが、有無を言わさぬひやりとした意志が込められている。
「僕たちを一体どこへ連れて行こうというんだ。
先輩や姉さんに何かあったらただじゃすまないからな」
「おやおや、口の利き方を知らないぼっちゃんですね。
ご自分の今置かれている状況がお分かりになりませんか。
黙っていなさいと命じたはずですよ?」
円は小さく「クソッ!」とつぶやいて黙り込んだ。
ルーシーは円と繋いでいる手を励ますようにぎゅっと握る。
実の姉より先に自分を心配してくれたことが嬉しい。
強がりがやはりチワワを連想させて胸がきゅんきゅんしてしまったこともある。
久しく姿を見せなかった変態中年が突然アクションを取ってきた。
ことの経緯を考えれば、拉致のターゲットはルーシー以外にはあり得ない。
とすれば双葉を人質にしていると匂わせているあたりに疑問が湧く。
加えて双葉の弟である円を同時に拉致したとあればどうだろう。
リスク管理の点から考えれば、変態中年の双葉への言及はブラフである。
そんな可能性が高いとルーシーは踏んだ。
人質は双葉ではなく実は円なのだろう。
敵の首謀者は、円に脅しを掛ける。
そのことでルーシーを間接的に支配しようとしているに違いない。
事実円のためなら、どんなことでも許容できる自分であることを、ルーシーは知っている。
佐那子の手下についても、布陣が手厚いはずのロージナ界隈で騒ぎが持ち上がっていない。
そうである以上彼らが手傷を負ったり、生命に危険が及ぶような事態に陥っているとは思えない。
元より多くの手数を踏んでルーシーをつけ狙う敵のそもそもの目的が分からない。
敵の目的が分からないので、例え逃げ出す算段がすぐに立つとはいえ事態は楽観を許さない。
まずは絶体絶命のピンチにあると自覚すべきであることは分かっている。
ところがである。
素早く状況の分析を行った結果、関係者への被害がほぼないと見積もれたからだろうか。
ルーシーは円と共に臨む今ここにある危機にワクワクする気持ちを抱いてしまう。
なんだか物見遊山に似た暢気な気分が頭をもたげてくるのを、どうしても止めることができない。
双葉の身を案ずる円の手を強く握り、ルーシーは彼と共にあることへの慢心を少しく恥じた。