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とも動物病院の日常と加納円の非日常

東京大空襲<転> 2

   幸運なことに24回にも及ぶ所定の爆撃任務を、クルーの誰一人欠けることなく生き抜くことができた。

大尉とそのクルーは無事ステーツに帰還することができた。

国家に対する義務を果たし輝ける英雄となったクルーだった。

士官も下士官も、彼らは全員が志願兵だった。

任務を終えた上は退役し、市民生活に戻るという選択こそが正気の気の字だったろう。

ところがいったい何を考えているのか。

大尉ともうひとり、航法士の少尉が再志願して軍に残った。

スキッパーもまた市井に戻ることは叶わぬこととなった。

 実戦経験が豊富で運にも恵まれている大尉と少尉ではあった。

しかしふたりが再びヨーロッパ戦線に戻されることは無かった。

ふたりは共に機種変換の訓練を受けるため、アリゾナにある陸軍航空隊の基地へと赴任した。

イギリスで搭乗していたB17から新型の爆撃機B29に乗り換えることになったのだ。

B29の操縦運用訓練と併せて部隊の新編成も行なわれた。

大尉は少佐に少尉は中尉へと昇進した。


 スキッパーは面白みのないアリゾナの地で、カニファミなりの無聊を慰めようと考えた。

イングランドに居た時には敢えて避けていた、人間観察に注力することにしたのだ。

 戦時に拡張された陸軍航空隊の、それも急造された訓練基地ともなれば近場に大きな町などはあろうはずもない。

森や草原など、スキッパーがひとりで楽しめる自然環境もいっさい見当たらない。

だだっ広い滑走路や駐機場は照り返しがきつい。

階級章にTの字を付けた整備兵が立ち働く格納庫や整備場も遊び場としては論外だ。

ガソリンやオイル、排気ガスの匂いで五分と居れたものではない。

鉄条網の内側にカマボコ兵舎が立ち並ぶ殺風景な生活の場も含めて、訓練基地の成り立ち一切が非ホモサピ的かつ非カニファミ的なのだ。

 真っ当なカニファミの娯楽が何処にもない。

そこで内省の意味も含めて、スキッパーはホモサピのソウルとじっくり向き合う事にしたのだ。

心地よい環境が見当たらずジュリアもいない。

スキッパーにとって高踏的な暇潰しを目論む自分への言い訳はそれとして。

人間観察と言う暇つぶしが、スキッパーにとっては趣味的なマンウオッチングに過ぎない。

それは確かだった。


 少佐の周囲の人間達は独身の若者ばかりで、下士官には十代の者さえいた。

昼夜の観察を通じて身に沁みたのは、彼らの行動様式が実に無邪気で他愛ないことだった。

訓練の合間に見せる若いホモサピの屈託のない笑顔は、犬として老成したスキッパーの心の琴線を妙な具合に刺激した。

それはスキッパーを居た堪れなくさせる程切ない気持ちに追い込んだ。

 ヨーロッパの最前線では、親しみを感じた笑顔に個人の臭いをタグ付けする間もなく、ホモサピの若者が次から次へと姿を消していった。

今いる訓練基地での人間関係と比べれば、圧倒的に付き合いは浅く希薄だった。

スキッパー自身も殆どの爆撃行に参加していたが、死は余りにも身近だった。

東洋に『君子は淡き交わり』という俚諺があると聞く。

明日をも知れぬ戦場では、それは全く正しいことだとスキッパーは思う。


 単純な個性を生きる若きホモサピ達に、スキッパーは個体臭をタグ付けする。

スキッパーは彼らを好ましいと感じればタグ付けせずにはいられない。

それがカニファミの嗜みと言うものだ。

そうして彼らの人となりをどんどん脳裏に刻みこんでいく。

だがスキッパーが好意を覚えた数多の小僧共は、この先訓練を終えた後に勤務地でどのような運命をたどるのか。

それを痛い程に知っているだけに、スキッパーの胸を締め付けられるような遣る瀬無さもひとしおだった。

 イングランドでは運の良いことに、最も仲の良かった少佐のクルーに欠ける者は一人もいなかった。

だが、僚機に搭乗する犬好きなホモサピの多くが帰らぬ人となった。

連中は糧食を分けてくれたり散歩やボール遊びに付き合ってくれる良きホモサピだった。

 良きホモサピは櫛の歯を挽くように姿を消した。

グループごとごっそり居なくなることもごく日常的な出来事だった。 

訓練を終えて、ステーツからはるばる大西洋を越えてやってきたばかりのクルーも例外ではない。

スキッパーが挨拶のひと嗅ぎをする間もなく、初回の出撃で姿を消す気の毒な小僧も稀ではなかった。

そいつが良きホモサピであるのか、確かめる暇すらないことも多かったのだ。

 初めて作戦任務に同行した時、スキッパーはバタバタと撃墜される僚機の姿を目撃した。

スキッパーは姿を消したホモサピたちの運命を、我が身にも起こり得る現実として認識した。

しかしながらスキッパーはそれを、まったくの他人事としてしか捉えることができなかった。

 スキッパーは死を経験した事がない。

だから死の意味が分からないし深く考えたこともない。

死と言うものにまったく実感は湧かなかった。

それでも撃墜される僚機には匂いをタグ付けしたホモサピが乗っている。

それは知っている。

最初の爆撃行は、スキッパーが死と言う抽象的な概念を、始めて意識した時だったかもしれない。

 帰還しないホモサピが行きつく先を理解したスキッパーは、それまでして来た気楽なノリで尻尾を振れない自分に気付いていた。

続々とステーツから送り込まれる若いホモサピ達は、それぞれ違う匂いと違う笑顔を持っている。

最初の爆撃行を境に、スキッパーは彼らをなるべく記憶に残さないことに決めた。

事実、スキッパーはホモサピとの付き合いは少佐のクルー達に限定した。

僚機のホモサピの所へ遊びに行ったり親しい関係を結ぶことを極力避ける様になったのだ。

そうした経緯もあって少佐やクルーと共にステーツへ戻る頃には、身内以外には無愛想な犬という評判を賜ったスキッパーではあった。

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