ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #108
第八章 思惑:11
生来、運命論や決定論的思考などとは無縁なチェスターである。
風土病的神様依存症と言える信仰という精神の傾斜についてさえも、気味の悪さしか感じてこなかったのだ。
加えて施設育ちという出自もあったろう。
身体であれ心であれ自身のコントロールが及ばない問題に関しては、表向き無関心を装いながらまずは逃げ出す算段を企てる。
それが、チェスターの処世と言うよりは脊髄反射に近い習い性だった。
だが畢竟、艦政本部人事局から鳴り物入りで“乗艦を命ず”の辞令が下りたのだ。
卑しくも海軍士官の端くれに連なる者としては、今更しかしもかかしもない。
チェスター的危機回避の戦訓からすれば、ここは三十六計逃げるにしかずという局面だった。
チェスターの本心は『トンズラしろ』と囁いたが、志願して軍人になった以上、やはりそれは無理な注文であることを良心が承知していた。
そうして図らずとも、海軍士官としていやいや臨んだ初めての艦上勤務で、チェスターはいきなり歴史的大嵐に遭遇するはめとあいなった。
この時ばかりは彼も大いにうろたえて正気を失ったことだった。
大時化(おおしけ)に翻弄されつつもなんとか任務を全うした。
そのことが十分誇るに足る戦歴であると思えたのも、どうにかこうにか生還してかなり時間がたってからの事だった。
嵐のさなか崩壊した艦の上部構造物を目にした際には、絶望のあまり自身の運命を呪い、おまけに天を仰いで祈りの言葉まで呟いてしまった。
筋金入りのリアリストかつ無神論者と密かに自負していたチェスターである。
この時の実に無様な自分の有様は、思い出す度身悶えする程の黒歴史となった。
学校の卒業をひかえ、チェスターが新任海尉として心から切望していた初任配属先。
それは、少壮気鋭の士官にはあるまじき部署だった。
気候が穏やかで、人情味に溢れた人々が静かに暮らす、何処か田舎の小さな港町。
そうした鄙びた平和そうな土地が、チェスターの切なる希望の任地だった。
そこでは中央から忘れ去られた小規模な港湾分遣隊が、配備されたカッタークラスの小さな艦に乗り組んで任務に就いているだろう。
隊員は人の良さそうな艦長の指揮下で、戦闘とは無縁な何か現地の人々の役に立ちそうな仕事に、日々勤しんでいる。
艦には強面だが実は人情家で気性の真っ直ぐな甲板長が居るに違いない。
甲板長は青二才の海尉をびしばし鍛えあげ、一人前の海の男に仕立て上げてやろうと、毎朝手ぐすね引いて待ち構えている。
出世競争とは無縁だが、やたらと水兵スキルの高い一癖も二癖もある同僚達にも恵まれる。
そんな任地で、チェスターは抜けるような青空の元、目いっぱい日焼けしながら、殺し合いとは無縁の健やかな青春を送りたかったのだ。
それは寂しい少年時代を送った故に醸成された、チェスターのキラキラリアルな夢想だったろうか。
御伽噺めいた願望は一先ず脇に置いておくとしても、チェスターが自分の能力をそれほど高く評価していなかったのは事実だった。
家系的な遺伝特性として記憶力が病的に良かったので、幼い頃から学校の席次は常に上位だった。
だが、そんなことは生存戦略上の得にはならない。
施設に居た子供の頃は、大人に誉められれば理不尽な酬いがあった。
賛辞に釣り合う頃合いで、肉体や精神への苦痛が同輩からもたらされることが普通だったのだ。
戦列艦への配属だって兵学校の席次がトップだったせいだろう。
このことでチェスターに敵意を持つ者も居るだろうし、何より嫌で仕方のない配属先なのだ。
記憶力の良さは幸せに繋がるかと問われれば、忘却が不可能である苦悩の方が遥かに大きい。
そう自信を持って答えることができる。
チェスターにとり、父から息子へと継代されてきた歴史記憶と称しても良さそうな情報の重積は、取り分け厄介な存在だった。
記憶力が良いだけなら賢く飼い慣らす術もあったろう。
しかしプレインストール済みの歴史記憶はそうもいかなかった。
過去から連綿と受け継がれてきた父系の記憶など、考えるだけでおぞましく気持ちが悪いものだ。
幼い頃に死別した父親への郷愁はあるが、彼のプライバシーに格別の興味があるわけでは無い。
まして父親の青春時代や母との馴れ初めにまつわるあんなことやらこんなことが、我が事のように思い出せるなど悪夢以外の何ものでもない。
歴史記憶を自分の記憶と切り分けて、アーカイブのように制御できるまでは、さすがのチェスターも情緒不安定になったものだ。
本来は父親がマンツーマンで、父祖伝来の制御法を伝授する性質の能力だったのだ。
実際、チェスターの父親も祖父も曾祖父もそのまた上も、そうやって能力を受け継いできた履歴が記憶されていた。
父親と言うメンターも無しによくもまあ正気で育ったものだ。
チェスターは我と我が身を自賛したいところだった。
チェスターの処世訓である逃げ癖は能力・・・歴史記憶と並外れた記憶力に起因していたことは確かだったろう。
同時に能力に随伴した訳の分からない義務に至っては、生まれつき負わされた呪いとしか表現の仕様も無かった。
能力に伴う義務は、追々チェスターの人生を大きく規定することになるが、それはまだ少し先の話になる。
兵学校に入ってからのことだった。
ある時ある人から、チェスターの様な人間はカテゴリーエマノンと称されるのだと聞かされた。
失笑を禁じ得ない与太話としか思えなかった。それでもある人の指摘は、一々が覚えのある事実だった。
能力は現実の人生に深く入り込み、それから逃れるのは難しいとも諭された。
確かに尋常ならざる記憶力の良さは、勉学に役立ちはした。
役立ちはしたが、人生のバランスシートを検討すれば、アリアズナがそう感じたように、能力はチェスターにとっても実に迷惑千万な話だった。
爾来、注意深く世間を探り続けているが、手や目の届く範囲ではそんなへんてこな人間に、ついぞお目に掛かったことはない。
自分の能力属性は気鬱だったが、兵学校に入学してからは、こと試験勉強については随分と楽をしてきた。
選良の集まる兵学校に、成績の良いことを嫉む虐めっ子がいないのは幸いだった。
級友は試験を楽々とこなすチェスターを羨んだものだが、当人的には歌が上手だとか駆けっこが早い程度の認識しか持てないでいた。
むしろ歌や駆けっこは練習や努力が必要な分、自分の能力よりずっと立派で凄いスキルに思えた。
それどころか、生まれつきの能力で楽をして自分はなんとずるいのだろうと、引け目を感じてさえいたくらいだった。
試験の成績が良いことに大きな劣等感を感じるチェスターだったので、級友には惜しげなくノートを貸し与え、学習のツボも余すところなく教示した。
そのせいか、チェスターのクラスは兵学校始まって以来の好成績をたたき出し、任官後の昇進も最速との評判をとった。
物覚えが良くても実務や問題解決のスキルとは関係ないだろう。
チェスターはそう確信し、ノンビリとしたそれこそ内海警備程度の任務が分相応なのだろうと生真面目に考えていた。
過分な責任を負わされてもそれを果たせる実力が自分にあるとは思えなかったことが大きい。
出世欲もないので、義務や人間関係に縛られる窮屈な人生に魅力を感じないこともあった。
小うるさい様々なしがらみを斬り捨てて、裸一貫のチェスターとして考えて見てれば、そんなことは一目瞭然だった。
だからこそ、小型艦であるカッターに見合った、戦闘とは無縁の軍務に就くのは性に合っている。
密猟者を取り締まったり、災害救助に力を貸したり、市民の為に身体を張るのは大砲を撃つより余程ましな仕事と思えた。
質素ではあってもご飯が沢山食べられ、安全安心で快適な海軍生活を送ることができるのだ。
これ以上の贅沢はあるまい。
それは家なき子であった彼が、海軍を志望したそもそもの動機に最も合致する理想の配置といえた。
そう言った訳で、艦政本部による将来の出世を視野に入れた計らいは、正直なところチェスターにとって大いに迷惑な話だった。
例のごとく戦列艦への配属人事についても、レベッカの父親が裏で糸を引いていたことは言うまでもない。
まさか自分を主人公とした陰謀劇が密やかながら倦まず弛まず進行しているとは、夢にも思わぬチェスターだった。
今となっては詮無いことだが、もしこの頃レベッカがチェスターの心情を知っていたなら二人の運命は大きく変わっていたかもしれない。
中央の政治力学とは無縁な田舎での明るく健やかな青春である。
レベッカがチェスターの望みに乗り、父親にゴリ押ししていたならどうなったろう。
今頃はカッターの艦長と副長を務めるオシドリ夫婦としてノンビリ任務をこなし、充実のカントリーライフを送っていたかもしれない。
チェスター命のレベッカなれば父親を脅し上げ、カッターの母港を終身の勤務地として根を下ろすことも可能だったろう。
ふたりが仲の良い夫婦になるのは、レベッカにとり変えようのない予定調和である。
であるならば、今頃はゾロゾロ子供がいて実に賑やかで楽しい毎日だったに違いない。
天気の良い日には、ハリヤードにオムツをはためかせてパトロールに出ることもあったろう。
悔い無き幸福な人生とは、細やかでも安定した収入をストレスなく稼ぎ出し、仲の良い家庭生活を営む内にあるだろう。
・・・モブにはなれない物語の登場人物には、遠い夢物語だった。
結局のところ、チェスターは内心に恨みと怯えを呑みつつも、同期生が羨む新鋭戦列艦に乗り組む人事を謹んで拝命することになった。