ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #199
第十三章 終幕:7
この世の中は知らない方が良いなんてことが、思ったより多いかもしれないよ。
ぼんくらチェスターがまさかのまさかな関係者だったなんて、寝耳に水だった。
それもがん細胞を排除する細胞障害性Tcellみたいな役回りだったなんて、質の悪い冗談としか思えなかったぜ。
んっな訳で、タケちゃんが注入してくれたせっかくの元気がものの見事にぶっ飛んじまった。
わたしは「わお!」なんて間抜けな叫び声を上げるなり、くるりと回れ右してヨーステンからスタコラと逃げ出しましたとさ。
後から冷静になって考えてみればだよ。
ぼんくらチェスターみたいな、社会的立場の高いひとかどの人間がだぜ。
いきなりわたしみたいないたいけな少女をブチ殺すなんてことはあり得なかったんだけどね。
わたしを殺さざるを得ないと判断したとしても、あのぼんくらチェスターだからねぇ。
しかるべき建て前と口実を用意して、しかるべき確実な方法でわたしに引導を渡すだろうよ。
なんとなれば、なぜわたしが死ななければならいのか、情誼を尽くして説明してくれるかもしれないね。
戦場の恐怖は、アリアズナ・ヒロセ・コバレフスカヤと言う五尺三寸の糞袋の外側から、ひしひしと迫りくるものだった。
だけどね、ヨーステンという名から受けた恐怖は、頭の天辺から足の爪先まで、それこそ五体の内側から湧き上がる魂のおののきだったんだよね。
サバンナのブッシュから飛び出たら、出会い頭にチーターと目が合ってしまったガゼルどころの騒ぎじゃない。
ほとんど脊髄反射のレベルでわたしは逃げ出したのだ。
うかつだった。
最初にヨーステンの名前を耳にしたのは、わたしがまだ能力に目覚める前のことだ、多分。
その時フルネームを聞いていたかどうかはまったく覚えていなかったけれども、まさかぼんくらチェスターの母姓がヨーステンだとは。
アリガの父姓はフェイクだろう。
チェスター・ヨーステン・ヨーステンが正しい名前の筈。
ヨーステンの能力であるエマノン効果の発現には、母親から受け継いだヨーステンのX染色体と父親から受け継いだヨーステンのY染色体が必要だ。
ヨーステンのY染色体と他所のお家のX染色体が出会うと、Y染色体は致死遺伝子として働く。
だからヨーステンの夫姓を持つ男の子は母親からヨーステンのX染色体を受け継が無い限り生まれることはない。
ヨーステンの男子だけが持つエマノン効果には、母系親族同士の婚姻が必須条件って訳だ。
ぼんくらチェスターの夫姓がアリガなら、彼は女性じゃなければならないってことだよ?
ありゃ、どこからどう見たっておっさんだろ。
と言うことはぼんくらチェスターの母姓がヨーステンである以上、彼はコバレフスカヤの守護者であり、まずいことに削除者ってこった。
彼がわたしにとっては守護天使兼死神だったなんて。
そんなこと、それまで夢にも思っていなかったさ。
白装束から逃げた時とは違って、ヨーステンからの逃走では、きびきびとしっかりした足取りで走れちゃったわたしだ。
何と言うか、戦場で迫りくる恐怖とヨーステンの名からくる恐怖とでは、質が全く違うんだよ。
戦死と削除の違い?
しっかし、その脊髄反射的なとっさの行動は、わたしが取るべき生存戦術としては大失敗だった。
思えばわたしをめぐる四つ巴のこの戦場で、少し霧が晴れて見通しが良くなった。
丁度そんなタイミングで、ぼんくらチェスターをヨーステンと認識したってのが運の尽きさね。
血みどろの白兵戦を戦いつつも対象確保への気配りを忘れなかった白装束の前で、ガンマ線バーストクラスの悪目立ちをしちゃったんだから笑えない。
なんとなれば舞台の上に役者が出揃った瞬間に、主役たるわたしが、どでかいポカをやらかしちまったようなもんだ。
わたしの状況にそぐわないちぐはぐな行動は敵よりも前に、まず味方の注意を引いちまった。
当たり前のことだけど、後先かまわずヨーステンから逃げようとしたわたしの動きは、タケちゃんにもディアナにも理解できなかった。
ふたりが自殺行為にすら見えたかもしれないわたしのドタバタ振りにびっくりしたのも無理はない。
焦りまくったディアナが、思わず驚くほど大きな声で呼ばわったわたしの名が、致命的駄目押しになったのですな。
「アリー!アリー!アリー!」
ディアナは必死て連呼しやがりましたよ。
『遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ、ってか!』
腹黒なケイコばあちゃんの仕込みなのだから、ディアナは敵の注意を分散するためのおとりって位置付けだったはずだよね?
『なに大音声でわたしの仇名を連呼してるんだよ、このタコ!』
臆病で自己中な生存本能がしでかした迷惑行為が原因なのに、わたしの心に住む卑怯な小心者が思わず絶叫してました。
まあそんなこんなで美少女二人組の内の一人が、アリーなんちゃらと特定されちゃった訳さ。
舞台ならぬ現実では、デウス・エクス・マキナの降臨など望むべくもない。
わたしの周囲半径五十メートルはあっという間に高密度の修羅場と化したのでありました。
とざいとーざいとばかりに喇叭が鳴り響き、鏑矢が悲鳴を上げ、号笛の音が朝霧を切り裂いたと思いねぇ。
すると『こいつら、いままで何処にいたんだよ!』と舌打ちしちまうほど沢山の戦闘員が。
得物を手にした殺気だった男女が。
わらわらと霧の中から現れ出でたっちゅうこ ってす。
こなたでは敵味方入り乱れての白刃きらめく肉弾戦。
かなたでは血涙ほとばしるガチンコ対決。
そんな総天然色なスペクタクルの開幕とござい。
寄ってらっしゃい見てらっしゃい。
観客の居ない野外劇場は掛け値なし。
出演者ほぼ全員参加の陣容で切った張ったのカオス状態と相成りましたですよ。
こちとらヨーステンから一尺一寸一分でも遠く離れたいってのに、ぐるりはたちまち血煙舞い上がる死闘激闘の阿鼻叫喚ときたもんだ。
お陰様でわたしは逃げるどころかその場から動くこともできず、拳を口に当てて成す術もなく立ちすくんだのでありました。
それはおよそ日頃思い描いていたありうべき己の姿とはかけ離れた『まるっと問題解決能力ゼロです』みたいなバカ娘。
情け無くも間の抜けた縮尺1/1の等身大オブジェでありました。
思えばあの時、恐怖からの逃走衝動をなんとか持ちこたえ、削除者たるヨーステンづれをいったん判断保留にしておければ。
一時でも守護者たるヨーステン様を信じて、目立たぬようにさらっとこの身をお任せしていれば。
そうできていればねぇ。
『ゴルディアスの結び目が水引き細工に見えるわ!ボケ!』
なんて悪態をついちゃうくらいにこんがらがった大人達の嫌らしい事情に、ぐるぐる絡めとられる羽目になんかならなかったかも。
もしかしたらこの広いロージナの片隅で、のどかな暮らしにこそっと戻る好機だってあったのかも。
なんてね。
そんなことちょこっと思ったりもするのデスヨ。
閑話休題。
倒れても倒れても立ち上がり。
傷を負った戦友を踏み越え乗り越え。
撒き餌に群がる池の鯉の様に虚ろな瞳をして戦う白装束達。
そんな幽鬼みたいな奴らがだよ。
返り血を浴びて白から赤へと色を染め変えながらただひたすらに、わたしを目がけて殺到してくるのさ。
必然的にヨーステンを含めタケちゃんや副長さん。
いつの間にやら駆けつけた、シャーロットさん配下のお兄さんやお姉さんたち。
そんなわたしを守ろうとする人達が、周囲に集まることに成った。
味方のみんなは戦いが続くうち、段々追い詰められてね。
終いにはわたしを中心に川を背に負う形で半円陣を組むことになっちゃった。
これって背水の陣っていうの?
まさに多勢に無勢で、いつしか防戦一方の半円陣の一角が崩れ、何人かの白装束がわたしに掴み掛かってきた。
まさにその時のこと。
押しに押されて直近の一人を切り伏せてこちらを振り返ったヨーステンの顔が、絶望と悲しみに満ち溢れているのが分かっちまった。
何ともさえないおっさんなのに、ちっこい目に可愛く涙を溜めて、少女の様に顎を震わせていやがった。
『ああ、この人は今、自分に課せられた使命を果たす決心をしちゃったんだ』
直感的にそう理解できてしまったわたしは、どういうわけか逃げ出すことをあきらめて身体の力を抜いた。
実にわたしらしくない往生際の良い振る舞いだった。
ここにアキコさんが居たならば、聞くに堪えない罵声を浴びせながら、ビンタの嵐をわたしに見舞ったことだろう。
『最後まであきらめんじゃねーよ、この糞ビッチが!』
アキコさんがわたしを詰る声が確かに耳元で聞こえる様だった。