垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達~
第18話 アプレゲールと呼んでくれ 30
「こうしてマドカとわたしだけでロージナに来るのも久しぶり。
ふたりっきりでデートだなんて。
豊田の羅曼茶で変態さんを待ち伏せした時以来ね」
ミックスピザを頬張る円に、ルーシーが柔らかな微笑みを向ける。
円以外には決して向けられることのない、ルーシーの素顔そのものだった。
「 ・・・先輩も食べてくださいよ。
本当に美味しいんですから、ロージナのミックスピザ。
・・・確かに、こうして先輩とふたりきりで取り留めのない馬鹿話なんて久しぶりですね」
円は口をもぐもぐさせながら『先輩は今日もきれいだな。なんだか眩しいや』と嘆息する。
「マドカ。
お行儀悪いわ」
ルーシーが身を乗り出しハンカチで円の口を拭う。
「この一年間は色々なことがあり過ぎたわね。
マドカと出会ってまだ一年に満たないなんて信じられない。
マドカやみんなと過ごした時間の密度が濃すぎて、もう何十年も一緒にいるみたいなの」
円は次のピースに手を伸ばす。
「それ橘さんが聞いたら泣いちゃうかも」
今日のルーシーは春めいた装いである。
薄いベージュのワンピースにスプリングコートといういで立ちで現れた。
ダイダラボッチからの誕生祝だというルビーのネックレスは、ルーシーの金褐色に輝く長い髪に良く映えている。
円はと言えばいつもと変わらぬジーンズにコットンシャツ、デニムのジャケットという取り合わせだ。
“あきれたがーるず”に揉まれている割に、円の全身造形は中身も外身もいつまでたっても子供じみて野暮ったい。
双葉と一緒に外出する時以上に、ルーシーの隣を任されるには役不足の感が否めない。
ふたりとも自分たちが他人からどう見られようと、最早何も感じない境地に達してはいる。
だが円のあか抜けない姿を目にする度に。
ルーシーのファンどもは切歯扼腕してこの世の不公平を呪った。
円をこの世界線から丸ごと削除したいと願う輩の反応は決まっている。
「削除が叶わぬのなら、せめて相応のアップグレードを果たしやがれ、カス!」
彼らは嘆願状を片手に叫びながら詰め寄り。
拳の一つでも振るいたいほど円にイラついているのだ。
そんな連中が、夏休み以降身長の伸びが著しい円に少しくトキメキ。
夜毎身悶えしているルーシーの酔狂を知ったらどうだろう。
必ずしや彼らは集団で狂を発し、それこそ刃傷沙汰が起きていたやもしれない。
蓼食う虫も好き好きとは言う。
だがそれは彼らにとって残酷な現実である。
「お楽しみのところ失礼します」
ふたりは気の置けないお喋りに夢中になっている。
そんなふたりの楽しい時に、無粋なおっさんがいきなり横入りしてきた。
ふたりは唐突に冷や水を浴びせかけられた格好である。
無粋なおっさん・・・。
それは例の変態中年だった。
ふたりは変態中年がテーブルの傍らに立っていることに気付かされたのだ。
ふたりはまるで青天の霹靂に仰天するミーアキャットの様な立体造形物と化した。
「おふたりとも大きな声を立てないでください。
ここの支払いは済ませてあります。
東都警備の方々はしばらくは動けませんから助けを求めても無駄です。
加納双葉さんのことがご心配ならおとなしく私についてきてください」
変態中年の薄笑いにルーシーは全身の肌が粟立つのを感じる。
乙女の潔癖を撫で回す気味の悪さしか見えない。
「姉さんに何を・・・」
こぶしを握りこみクイックタイムで気色ばみかけた円を、変態中年は掌で静かに制した。
円が感じた変態中年の印象はルーシーとは違う。
『弱っちそうなオヤジだな』
刹那の驚きから立ち直ると、サラリーマン風の地味な中年男の言い様にむかっぱらが立つ。
『パチカかましたろか』
練鑑から出所して以来、荒事へのハードルが妙な具合に下がった円である。
だが臨戦態勢の狼と言うよりは強気なチワワにしか見えないのはご愛敬だったろうか。
変態中年の様子からするとことは深刻だ。
たった今開始された状況は刑事犯罪の範疇に突入しそうな流れに思える。
それにも関わらず『マドカったら、まぁ可愛らしい!』などどルーシーは頬をそめる。
驚きが去って仕舞えばどうと言うこともない。あるべき危機感をよそに、場違いな感想を抱いて胸がキュンとなる。
円に惚れるこのルーシーと言う娘は、やはり稀代の変わり者かもしれない。
「大人しく私についてきてくだされば誰も傷つくことなく、ことは穏かに治まります。
お分かりになりますね」
変態中年は見た目の年齢より遥かに老成した印象である。
狡猾とも言えそうな冷たく濁る光を瞳にたたえ、円の抵抗を抑え込んでみせた。