ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #176
第十二章 逢着:10
レベッカと共有する愛情には揺るぎがない。
チェスターはそう思い込むことに不思議と躊躇いが無かった。
付き合いが長いと言うこともあったろう。
ふたりを隔てていた堰を一度切ってしまえば、あちらとこちらの水はたちまち混ざり合い再び分けることは叶わない。
そこに疑いはなかった。
予定調和にさえ思えるふたりの愛情の基礎には、十年以上に渡って築き上げてきた信頼関係がある。
だが、索引者=インデックスとの距離がこれほどまでに縮まった今。
チェスターはレベッカとの信頼関係を損ないかねないあることを憂いた。
そしてそのことにやるせない思いを馳せたのだった。
チェスターが思いを馳せたのは自身に備わる、索引者とは種類を異にする能力ことだった。
エマノン効果と呼ばれるその能力はコバレフスカヤと同じく、ヨーステンのDNAに組み込まれた先祖伝来の呪いだった。
エマノン効果によって書き起こされた代々の歴史記憶は、当代のヨーステンであるチェスターの大脳にそっくり格納されている。
そしてそこには、ヨーステンの名を持つ男子に課せられた、逃れようの無い特別な義務もファイルされていた。
ヨーステンの家で生を受け歴史記憶を受け継いだ男子は、文字通り歴史の生き証人と成る。
ヨーステン家の本来の使命は、ロージナ人の歴史を記録することなのだろう。
ロージナにいったい何人のヨーステンがいるかは分からない。
巡洋の旅で各地を経廻ってきたものの、自分以外のヨーステンと出会ったことはない。
だが、ヨーステン家がたった一家ということはあり得ないだろう。
もしかしたらヨーステン家以外にもエマノン効果を伝える家系があるかもしれない。
そうであるなら、顔や所在の分からない各地のヨーステンや名もしらないエマノンの眷族も、日々歴史記憶を積み重ねているに違いない。
ヨーステンやエマノンの眷族であることが、歴史記憶の保管庫と言う役割だけであるなら個人の人生に何の問題も無い。
例えば美味しい一面だけを考えるなら、エマノン効果に随伴する驚異的な記憶力は、学習と言う憂鬱な反復作業に於いてはチートな能力だ。
一般人には無いチートな記憶力だけがエマノン効果のオマケなら、それを大いに活用して、チェスターだって憂いなく堂々と人生の花道を歩めたろう。
だがヨーステンの男子は、歴史の生き証人になるだけでは許してもらえなかった。
なにかとお得な記憶力と引き換えに、代償を支払わなければならないのは、悪魔との契約と一緒だった。
索引者=インデックスを守る守護者=ガーディアン。
索引者=インデックスを抹殺する削除実行者=デリーター。
索引者の生命を守り擁護する立場と、索引の能力を悪用される前にその生命を奪う立場。
ヨーステンの男子とっては、この二つの相反する責務がチートな記憶力の代償となった。
歴史記憶は生きていさえすれば黙っていても溜まっていくが、守護者と削除実行者であることを全うするためには、具体的な行動が必要になる。
だからなのだろう。
歴史記憶は、幼少の頃からチェスターにそのことをしつこく伝えてきた。
なんとなれば、チェスターは誰からも教えられることなく、守護者と削除実行者の責務を知っていたのだ。
それはチェスターが、責任という概念を学ぶはるか以前に身に付いた、訳の分からない義務感でもあった。
チェスターが孤児となったのは、父親からヨーステンの血の秘密と歴史記憶の意義について、詳しい経緯と説明を聴く前のことだった。
父親を失い孤児となったチェスターは養護施設で育った。
当然の事ながら彼は、父母や兄弟のいる家庭を知らなかった。
そのことが大きかったろうか。
他人の考えに興味を持ったり、それを知る必要性も感じることなく育った。
そんなチェスターではあったが、ある日のこと、自分の頭の中の景色が周辺の子供や大人とは全く違うことに気付いた。
当時のチェスターは、自分が人と違うことに大いに戸惑った。
だが自分のものでは無い記憶が、そのことを隠すようにと心の奥底から命じてきたことには、なお一層の戸惑いを感じた。
『僕は一度見聞きしたことは絶対に忘れないけれど、みんなはそうじゃない!』
そうした自分の性質は、人に知られれば厄介なことになりそうだと子供なりに理解できたので、心の声には素直に従うことにした。
チェスターは自分が他人より異常に記憶力が良いことを、こうして幼少のうちから自覚していた。
記憶力が良いことは生きる上でなにかと有利なことが多かった。
養護施設と言う過酷な環境下ではサバイバルの役にも立った。
施設の仲間の多くは、成人を待たずに肉体労働専一の職に就いた。
教育もコネもない孤児にとって、元老院暫定統治機構は生きる為には厳しいところだったのだ。
だがチェスターは、記憶力の良さに助けられて兵学校に進学する運に恵まれ、幸いそこでも優秀な成績を修めることができた。
驚異的な記憶力とそれを操る高い知能は、チェスターの人生に好機をもたらすチートなギフトに他ならなかった。
そんなチェスターも、尋常ならざる記憶力とエマノン効果による歴史記憶が、因と果として結びついた時にはさすがに悩んでしまった。
兵学校への進学を考え始めた頃だったろう。
エマノン効果は先祖伝来の歴史記憶に新しい章を書き加えていく、言わばエディターであることに思い至ったのだ。
周囲の人間が歴史記憶を持たないことを知った時は、自分の記憶力が化け物じみているのに気付いた時以上に驚いたものだった。
なぜなら、ご先祖様の記憶を参照しながら日々を生きることは、チェスターにとりあまりに当たり前で自然なことだったからだ。
だがそのご大層な記憶力も、エマノン効果が書き起こした歴史記憶を保存するためのシステムと考えれば、『なるほどね』と納得はできた。
自分が持つ驚異的な記憶力や、エマノン効果がもたらす歴史記憶について、誰にも相談できないことは生まれる前から知っていた。
そこでチェスターはひとりで黙々と、伝承や昔語りを渉猟することにした。
施設の図書室や街の図書館を調べてまわったが、求める答えは見つからなかった。
兵学校に入校してしばらく経ってから、自分が歴史記憶を持つことの意義は、歴史記憶の中にこそあると考えを進めた
書庫の本を調べるように、頭の中にある歴史記憶の連なりを慎重に紐解きながら、チェスターは答えを捜した。
兵学校の二年目、前期試験を控えた日曜日の夕方のことだった。
チェスターは図書館で勉強するふりをしながら、あるはずもない能力に関する文献をあさっていた。
すると捜していた答えは、まるで天啓のように不意に舞い降りてきた。
歴史記憶の意義は、父子相伝の秘伝だと言う事を、チェスターは唐突に発見・・・いや思い出した。
歴史記憶の意義=父子相伝である秘伝を歴史記憶から引き出すには、封印された扉を開く解除キーが必要であることを思い出したのだ。
解除キーは父親だけが知っているはずだった。
となると父親を失った自分には、歴史記憶の意義は手の届かない情報になってしまう。
チェスターはそのことをいきなり覚ったのだった。