![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/92842035/rectangle_large_type_2_ba57a2c1fce45903e29de9bad530a8f5.png?width=1200)
ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #116
第九章 接敵:2
「アリー?どうした」
シンクレアさんの声でわたしは我に返った。
知らず知らずの内にわたしの意識は心の底に沈み込んでいた。
しかも、あろうことかその時頬が涙に濡れていたのだった。
「あっ、いやたいしたことないっす」
わたしはゴシゴシと目をぬぐった。
念の為、対人忖度用の笑い袋をひとつ切り裂いて、即席笑顔を爆発させてみた。
「ちょっとばかりクズな自己憐憫に浸ってましした。
疲れてます。
集中途切れました。
ごめんなさい」
シンクレアさんは澄んだハシバミ色の瞳に少し悲しそうな色を混ぜた。
叱ると言うより心配そうな口調で、わたしに気持ちを見せてくれた。
「アリーがどうしてここにこうしているのか。
いや居ざるを得ないのかは、あたしにはとんと見当もつかない。
だけどね、アリーがこの船に乗っている限りアリーはあたしたちに命を預けている訳だし、あたしたちもアリーに命を預けている。
ボロバケツに乗っかって空や海を行くと言うことは、煎じ詰めればただそれだけのことだよ?」
シンクレアさんはわたしの涙については一言も触れず、話題を切り替えるかのように見張りの要点を教え始めた。
わたしたちはメイン・トップ台の上にいた。
非番のわたしは士官教育の一環として今日はトップ台の上で見張り。
いや警戒観測についてのあれこれを、シンクレアさんに教えてもらっていたのだ。
肉眼でぐるり三百六十度の水平線上に現れるアンノウンや島影、海面や空の異常を探す。
もしアンノウンを見つけたら即時当直士官に通告。
時刻と方位を記録し始め以後距離を概算しながら艦船の所属や種類の同定を行う。
シンクレアさん基準では、このアンノウンの同定が大変。
マストのあちこちではためく旗の種類や意味を覚えて、世界中の船や軍艦の色や形やプロフィールを覚えることが基礎の基礎。
シンクレアさん基準では海図をちゃんと読んで、自分の今いる場所を正確に把握するのも基礎の基礎。
当然、作戦海域の島や陸地の位置や形、暗礁や水道のあれやこれやそんなことこんなこと。
全部記憶することが必要になる。
『できっこないじゃん!』
わたしをいったい何処の誰だと思っているのだろう。
小癪なことにディアナは、信号旗の意味や用途組み合わせについての知識はもう完璧だった。
加えて手旗信号やモールス信号も、のろまだがほぼ使いこなせている訳だしね。
あろうことかその分野ではわたしの先生いや教官に任命されていると言う忌々しさだ。
当直の時も非番の時も、ディアナは自分の事を先任あるいは分隊士と呼べとこうるさい。
それだけでもいい加減ウンザリなのに信号関係の演習時には、なにがなんでもわたしに教官殿と言わせたがった。
手旗信号はわたしより下手糞だし、モールス信号だって既にわたしの方が上手に使いこなせるのにも関わらずだ。
ブラウニング艦長も少々おふざけが過ぎると思うのだが、なんと、ディアナはわたしに対する信号演習の教官辞令まで拝命しているのだ。
警戒観測全般の責任者であるシンクレアさんも、他の分野の教官殿の誰それも、そんな辞令など受けていなかったのにだよ。
艦長に問いただせば『面白そうだからに決まってるでしょ』とうるさげにシッ、シッってされるに違いなかった。
昨日は酷い時化に見舞われて、地獄の天井もかくやと言う空模様だった。
今日は一転、空は嘘のように澄み渡って目に映る天と海の青は楽しい夏休み色だ。
嵐のときピグレット号は艦長の命令一過セルはおろかヤードも甲板に降ろして早めにヒーブツー(一時停船)の態勢に入った。
ありったけのアンカーやウエイトを艦底から垂らしたので、すごい風だったけれどピグレット号は停船地点からそれほど流されることもなかった。
それに、変な加速度であっちやこっちに揉まれることもなかったから、気象の知識に疎いわたし的にはさほど恐怖も感じなかった。
主計長のステラさんが、特別に作ってくれたマドレーヌやクッキーでお茶してね。
おしゃべりやゲームでワイワイ騒ぎながら嵐の過ぎ去るのを待ったの。
大風でいきり立つ海の咆哮。
びょうびょうと吹きすさぶ風音。
叩きつけるような雨粒の掃射。
そうした、嵐の演じるパフォーマンスは凄まじいの一言に尽きた。
わたし一人っきりで船中に居たのなら、もしかしたら耐えがたい程恐ろしいと感じたかも知れない。
けれどみんなと一緒にヌクヌクキャイキャイと遊んでいただけなので、たいした緊張感も無くいつしか嵐は通り過ぎていたのでありました。
わたしらが騒いでいる間、主計課のテーブルではお偉いさん達が、この間プリンスエドワード島で仕入れたワインで優雅に酒盛りをしていた。
やたらハイテンションで饒舌なブラウニング艦長と白っぽい無表情で上機嫌と知れるマリアさんが、ふたりでやたらキャラ立ちしていた。
そのふたりの様子が遠目ながらちょっと不気味だとひそひそ話をしていたのは、わたしたち下っ端だけの秘密だ。
「下の連中は生きた心地がしないでしょうね」
ふとした折クララさんがそう漏らした。
なんでもわたしたちが遭遇した嵐は、クララさんも経験したことのない程勢力が強い低気圧だそうな。
気圧計の下降具合に正直ビビったとおっしゃっていた。
早々と店じまいしてヒーブツーに入ったのはそういう訳だったらしい。
そういう訳と言われても、わたしは生まれてこの方海上いや空中で嵐にあったことなど無かった。
だから『ああ、そういう訳ね』と得心できた訳では無い。
というかあまり興味もなかったのが偽らざる本音だ。
必然的にこんなものかと思ってしまい、あれこれ想像を廻らさないわたしだった。
ディアナに言わせれば『そんなアリーは呆れちゃう位にもの知らずな極楽とんぼ』であるらしかった。
悪天候で海上が大荒れすることを時化(しけ)と言うのだそうだ。
そうした業界用語?もこの時初めて知った。
ディアナはクララさんの話にうなづきながら偉そうなしたり顔で語ったものだ。
「時化た海の二十メートルを超える大波を、休む間もなく受けては乗り越え、それこそ木の葉の様に翻弄されるのが海上艦や海上船。
上下左右縦横斜めにシェイクされ続けるクルーのみなさんのご苦労に、少しはそのスポンジ頭で想像を巡らせて見ろ。
このごく潰し!」
そう言ってバーリー士官候補生分隊分隊長殿は、わたしのことを盛大にディスってくれたものだった。
生まれて初めて聞いた時化という気象現象が引き起こす惨事を、言われた通りスポンジ頭で想像してみたが、肌感覚として全く了解できなかった。
分からないものは分からないので正直にそう言うと、ディアナは処置なしねと言う顔で肩をすくめおまけに口までゆがめて見せた。
アキコさんにも迫ろうかと言う重ね重ねの無礼な物言いとその態度に、わたしの中のハイドが目覚めた。
もちろん、後で二人っきりになった時に、彼女のことはハイドの助力よろしきを得て、存分に懲らしめてやりましたとも。