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とも動物病院の日常と加納円の非日常

あいつ 3

 「また来てますよ、あいつ」

洗濯物を山と抱えた僕は、顎で入口の方を指し示めした。

ともさんは手術台を机代わりに何か書き物をしていた。

「一番いい処方食やっといてくれよ。

るいさんの猫なんだし。

なんせこの暇な時期にうちの病院。

にゃんたには随分と世話になっているみたいだからな」

ともさんは僕の目を覗き込んで『そうなんだろう』と同意を求めながら頬を歪めた。

ともさんらしくも無く邪な笑みだった。

スキッパーが呆れたと言う顔付で僕ら二人の表情を見比べ、額に皺を寄せて友の迎えに出た。


 世話になっているといってもるいさんにではない。

それは、時々手作りのカレーをデリバリーしてもらったり。

お料理教室の課題作のお毒味などさせてもらっている。

けれども、何と言うか。

ともさん共々お腹をこわしたこともあるし。

前人未踏と思われる驚異の味覚世界を体験させられたことだって一度成らずある。

お店の軽食はお父上が仕切っていて、一向に手伝わせてもらえない。

るいさんはそう言って可愛くぷんぷんしていたがむべなるかな。

今のところお父上の判断は正しい。

 るいさんはちょくちょく病院の掃除や繕い物もしてくださる。

その代わりと言っては何だが。

休診日や折々の機会にはともさんが物心両面で随分とちやほやしているはずだ。

はずだが、詳しくは知らない。

僕もちやほやしたいのだが、ピースケの一件以来るいさんにはモブ扱いされている。

 兎にも角にもこの時。

財政の逼迫したとも病院が、両手を合わせて拝むほど世話になっていた恩人。

それはるいさんではなく実はにゃんたその人、いやその猫だった。

一番良い処方食はるいさんの猫だからという贔屓ではない。

にゃんたことあいつ自身への感謝を込めたはからい。

いや謝礼だったのだ。


 「どうもありがとうございました。

ごきげんよう。

スキッパーちゃんもまたね」

ご近所の岩田さんのおばあちゃんがスキッパーに見送られ、マフラーにくるんだそめをつれて病院を出ていった。

岩田さんのおばあちゃんは戦前の女子大を出たと言う上品なご婦人だった。

お孫さんが何人もいるので、便宜上おばあちゃんとお呼びしてるが、お年は未だ還暦前とお見受けする。

見た目はとてもお孫さんがいる様には見えない。

そめは、そのおばあちゃんが孫と同じくらい可愛がっている三毛猫だった。

岩田さんのおばあちゃんはスキッパーが自ら敬意をもって接する。

数少ない人類の内の一人だった。

 そめは、今時珍しい短尾短躯の日本猫だった。

なんと和泉式部の愛猫から名前を採ったのだという。

一事が万事ざっかけない坂東には希な、深窓のご令猫だった。

そめは右側の後ろ足に傷を負っていた。

創口とおばあちゃんのお話から、その傷は他の猫による咬み傷であることは明らかだった。

「そめが大慌てで走ってきた方を見ましたらね。

まるで猛虎のような姿をした猫さんがこちらを睨んでおりました。

本当に恐ろしい顔で。

そめが何か猫さんの気に障る事でもしたのでしょうか。

うちの庭先でのことですから。

そめの落ち度とばかりは言えないような気がして。

わたくし本当に困ってしまいました」

岩田さんのおばあちゃんは品よく愚痴ってみせたものだ。

幸いにもそめは手当が早かったこともあり、二三日足を引きずる程度で済んだ。

最近ご近所の猫にこうした咬傷事故が頻発していたのだ。

中には咬傷に気付くのが遅れてしまいひどく化膿する猫もいた。

ご町内の猫社会にとって、ことは余程深刻だったろうか。


 「近頃猫の咬傷がやけに多くありゃしませんか」

僕は診察台の上を消毒しながらともさんに尋ねたものだ。

「パイよ。

おまえもそう思うか」

「それも、ご近所の猫ばかり。

さっきの岩田さんのおばちゃんのそめをはじめ。

青山さんちの与太郎や浅田さんのところの寿丸。

角のアパートに住んでる英語の先生。

ハインラインさんのところのピートも手ひどくやられましたからねえ」

 僕は最近来院したよく見知っている猫達の名をあげた。

範囲を数日から週や月の単位に広げればもっと多くの咬傷猫をあげられた。

それはともさんも十分承知のことだった。

「あいつかな」

「あいつでしょう。

岩田さんのおばあちゃんが見た猛虎は、あいつ以外には考えられないでしょう。

怪しいとは思ってましたけど、咬傷の増え始めた時期は調度るいさん達が越してきた頃です。

この辺で猛虎と言う表現に似つかわしい猫は、あいつ以外には考えられませんよ。

現場を押さえられたのは今日が初めてですけど、僕はおばあちゃんのお話を聞いて確信しましたね」

「そうだよな。

るいさんにそれとなく話してみるか?

このこと」

僕は激しく首を振るとともさんの短慮を諫めた。

「絶対だめですよ。

今うちは財政的に絶体絶命のピンチなんです。

唯でさえ仕事の少ない真冬のこの時期。

せっせと仕事をこしらえてくれているあいつは救世主みたいなもんです。

手を合わせてお礼を言いたいくらいですよ。

そんなことるいさんに言ったら、あいつ去勢されちゃいますよ。

あいつが去勢されればおそらくうちの仕事は激減します」

僕は哀願の中にも固い決意を秘めて、口早に異議を申し立てた。

善人でお人よしのともさんは、ポカンと口を開いて心底驚いた顔をしていた。

少し間をおいて弟子の邪な考えを理解したのか。

苦笑しながら僕から目を逸らした。

「越後屋おまえも悪よのう」

そこですかさず僕がこう返したことは言うまでもない。

「お代官様。

ここは一つ、この越後屋にお任せください。

イヤイヤ、お代官様は何一つ御心配なさることはございません。

決して御損はさせませんから」

 とは言っても僕は何もするつもりがなかった。

あいつをけしかけた訳じゃない。

知らぬ半兵衛を決め込んで全て成り行き任せにしただけだ。

放っておいても飯の種は向こうから舞い込んできた。

怪我をした猫が病院に来れば誠心誠意手当をして適正な対価を頂戴する。

ただそれだけのことだ。

やがてあいつも他の猫も状況になれて棲み分けができるだろう。

そうなれば地域の咬傷猫も減ってくるはずと思っていた。




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