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とも動物病院の日常と加納円の非日常

東京大空襲<転> 8


 「日本人もあれだな。
呑気なものだな。
なんで俺を捜しに来ないんだ。
“愛しのオフィーリア号”が墜落してからもうだいぶ時がたつぜ。
これがドイツだったら、俺たちゃとっくにゲシュタポの豚共にとっつかまってるな。
それで今頃はブヒブヒ言われながら小突き回されてたことだろうぜ。
見ろよ東の空。
ルメイ閣下が人間をこんがりローストしていらっしゃる。
悪趣味なこった。
・・・ああ、分かってるよ。
俺の魂だってボロの山に落ちた腐った林檎と同じくらい糞まみれさ。
拾い上げてゴシゴシ洗ったところで、もぎたてのみずみずしさを取り戻せる訳じゃない。
そんなこたぁ分かってる。
・・・神様と音信不通になってからしばらく経つけどな。
今何処にいらっしゃるのか皆目見当もつかん。
でもな、神様がまだご存命で俺の知っていた頃とお変わりないままならあれだ。
この世界の有り様をご覧になって、さぞや呆れかえってることだろうぜ。
・・・俺だっていい加減、世界どころか自分自身にすら愛想が尽きかけてるもんな」
『この男はこの局面で何を感傷的な自己憐憫に浸っているのか』
スキッパーは少し腹を立てた。
付き合いが浅ければとっとと見切りをつけてオサラバしてやるところだ。
だが、レノックス少佐には恩義も情もあった。
そこで気合を入れるため叱ってやることにした。
「わふ!
わふ?」
「誰ゾソコニ居ルノカ?」
突然、聞いたことのない言葉が暗闇から浴びせられた。
うかつだった。
へたれな少佐に付き合って愚痴を聞いている内に、周辺への注意を怠ってしまったのだ。
風でざわつく森のせいもあったろう。
見通しの利かぬ藪に視界を阻まれていたせいもあるだろう。
風下からくる不意の声掛けだったので臭いにも気付かなかった。
それは予め想定されていた現地住民との接近遭遇だった。
さしものスキッパーも心臓の鼓動が高まるのを感じた。
「・・・アメリカの兵隊です。
乗機が撃墜されてパラシュートで降下しました。
抵抗はしません。
大人しく投降します」
レノックス少佐は、先ほどまでの世を拗ねた様子とは打って変わり、素直に両手を上げた。
そうして抵抗しないことを示し、自分の状況と希望を大きくも小さくも無い声で訴えた。
日本語で何か問われたようだが意味などどうせ分からない。
ここは相手の教養水準に賭けて、考えてあった口上を英語でゆっくりと発話した。
敵ではあっても人間同士なのだ。
誠実に話しかければ、少なくとも今現在自分に敵意が無い事だけは伝わるだろう。
そう少佐は考えたのだった。
 南部生まれの癖をして、レノックス少佐は子供の頃から人種偏見の成分が大層薄めの白人だった。
少佐の祖父は世界を股に掛けた貿易商で南部では珍しい共和党支持者だった。
フィリップ少年は、大らかで性格の明るい祖父の秘蔵っ子として育った。
人種偏見と距離があったのはそんな祖父の存在が関係していたかもしれない。
 日本人から見た自分の行状を思えば、例えなぶり殺しにされても仕方がないことだと諦め半分で考えていた。
軍人と言う立場のレノックス少佐であるならば言い分は山ほどあった。
けれども日常生活における被害者は、政治的使命を帯びた加害者の視点を持つことは難しいと少佐も理解していたのだ。
少佐としてはできる事ならまだ死にたく無かった。
戦争の終わりも見え始めていたので、生きられるものなら生き延びたかった。
それは絶望的な状況の中でも変わらぬ、人として当たり前な生への執着だった。
 レノックス少佐は、祖国に対して応分以上の義務は果たしたと考えている。
ある種の大義のため勇敢に戦った自負心と満足感もある。
実体としての戦争はヨーロッパでも太平洋でも続いていた。
だがこうして敵地で撃墜された時点で、自分の戦争は終わった。
『自分の戦争はもう終わったのだ』
そう決めてしまった心の真ん真ん中にある了見は、今後どうあっても変わりそうにない。
現役の軍人としては困ったことだなと思う。
長いこと馴染だった身体と精神の倒錯的高揚すら、まるで憑き物が落ちたように消え失せてしまったのだ。
少佐の覚悟は自然と決まった。
だから、まともな武器もなく敵地にあり、ひとりぼっちで敵国人と対峙した今この瞬間のこと。
小ざっぱりとした気持ちが妙に心地よい自分がちっとも不思議ではない。

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