とも動物病院の日常と加納円の非日常
まりちゃんの残り香 1
「今度スカンクが来るぞ」
ともさんがふと、新聞から目を上げると僕に向かってにこやかに宣言した。
「えっ、すかんくって?」
僕は拭き掃除の手を休めてともさんに警戒の目を向けた。
何だか物凄くいやな予感がしたのだ。
「・・・すかんくって。
あのスカンクですか」
「そう、あの臭い奴」
ともさんは、再び新聞に目を落とした。
スキッパーがギョッとした顔付でともさんを見ていた。
その日は特に暇な日で、僕は朝から病院の拭き掃除に余念がなかった。
「二日酔いがたたって何もする気力が湧かない」
とかなんとか言って、ともさんは待合のベンチで横になり鼻毛を抜きながら新聞を読んでいた。
外は木枯らしの吹く寒い日だった。
冬ぐもりの空の下、丘陵の林まで不機嫌そうな灰色に染まっていた。
もう、いっそ冬眠している動物が羨ましいくらいに冷え込む日だった。
「でっ、何なんですか。
そのスカンクとやらは」
こんな陰鬱な日にともさんも何を考えているのだろう。
病院のステレオにはサミュエル・バーバーのアルバムがリピートでかけてあった。
ちょうど“弦楽のためのアダージョ”の冒頭だった。
青年の希望を萎えさせ、絶望を勢い付かせるような調べだった。
この曲はいつだって人の神経を逆撫でにする。
スキッパーですらいまいましそうな顔でスピーカーの方を睨んでいたからね。
僕と意見を同じくしていたに違いない。
「まりちゃんだよ」
ともさんがつまらなそうに呟き、引き抜いた鼻毛を指先から吹き飛ばした。
ベンチの脇に居たスキッパーが嫌そうな顔をして場所を移動した。
「・・・で、そのまりちゃんが、どうかしたんですか」
僕は穏やかな口調で『ともちゃん話して御覧なさいな』と。
まるで小学生に尋ねる新卒の教師の様に口角を上げ頷いて見せた。
「まりちゃんは、可愛いんだがとても臭いそうなんだ」
ともさんは、今度は新聞から目を上げなかった。
「臭腺取っていないんですか」
僕は再び拭き掃除を始めながら、ともさんの方に視線を向けずに聞いてみた。
「だからさ、それを取るのさ。
まあ、犬の肛門嚢を取るのと同じだって言うからな」
「お知り合いですか」
「いや、昨日電話があった。
うちで五軒目だったそうだ。
・・・まりちゃんは臭いだけじゃなくて、おまけにたいそう気が短いそうなんだ」
「他所じゃ断られた。
そう言うわけですか」
ともさんは新聞を畳むとベンチの上で起き上がり真剣な眼差しで僕を見た。
「パイよ。
うんとギャラが良いんだ。
こちらが何も言う前に、機先を制する様にまずは金額の提示があった」
僕はいつになく真剣な目をしたともさんから、ふっと視線を逸らすと覚悟を決めた。
「でっ。
先方はいくら出すって言ってるんです?」
それはいくら何でもあんまりという格好だった。
僕は、外科帽にマスクとスキーのゴーグルをつけ。
更に長靴を履きゴム引きのエプロンと手術用のグローブを装備した。
最早それは接敵からの状況開始に備えた武装。
そういってもよい出で立ちだった。
見方を変えれば、獣医と言うよりは安手の前衛劇か作画崩壊したアニメにでも登場しそうな?
そう、マッドサイエンティストもかくやという風体だった。
我ながら、そのまま外を歩けば110番通報必定の怪しさだった。
「準備は良いか。
ケタラールの筋注。
一撃で極めて速やかに離脱しろ」
ともさんは、明らかに面白がっていた。
病院の裏手にある犬舎脇の運動場の真ん中にまりちゃんはいた。
まりちゃんは洗濯用のネットに入り段ボール箱に収まっていた。
「パイよ。
静かにガムテープをはがしてそっとふたを開けるんだ。
まりちゃんに反撃する隙を与えるな。
おまえは今。
藤枝梅安だ。
速やかに注射針を突き刺すんだ」
「承知しました。
元締め」
僕は、半ばやけくそになって答えた。
冬枯れのあの日。
ともさんがスカンクのまりちゃんについての一件を切り出した際の嫌な予感。
それはズバリ的中した。
文献を読み。
手はずを考え。
準備万端整った今日のこの日。
先日とはうって変わって、春と見紛うばかりにうららかな陽気の午後。
まりちゃんは目の粗い洗濯ネットに入れられ。
そのまま段ボール箱に梱包されて到着した。
「昨夜からの絶食で今日のまりちゃんはことのほか機嫌が悪いんです」
飼い主さんが眉根を寄せ、それから一転破顔し爆発するように笑い出した。
『何が可笑しいんだよコノヤロー!』
僕の胸に殺意が芽生えた。
麻酔は注射薬で導入後、ガスで維持と言うことになった。
状況開始で最前線を真っ先切って突貫するのはいつだって下っ端の兵士だ。
古今東西の戦場で相場はそうと決まっている。
ところが困ったことに、とも動物病院に下っ端は僕一人しか居ないのであった。
「締めてかかれ。
フォースと共にあらんことを」
そう言うとともさんは、スキッパーと一緒に音も立てずに後退して犬舎に入った。
そうしてきっちり閉めたドアのガラス越しに親指を立てた。
ともさんの胸に抱かれたスキッパーはいつになく陽気で楽しそうだった。
場を盛り上げようと思ったのか。
調子に乗って『わんわん』とまりちゃんを挑発したのにはまいった。
段ボール箱から“バシッ”という音が聞こえたのだ。
まりちゃんが箱の壁面を殴りつけでもしたのだろうか。
スキッパーの挑発は、まりちゃんの怒りの炎に油を注いだやもしれなかった。