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とも動物病院の日常と加納円の非日常

あいつ 2

 診察室から聞こえる若い女性の声は珍しい。

それもあってだろう。

るいさんの鼻声はともさんに対して集合フェロモンみたいな作用を及ぼした。

寝ぼけまなこで、ふらふらと奥から這い出て来たともさんだった。

ところがことの次第を見て取ると、ともさんはいきなり勇者モードになった。

泣きべそをかいているるいさんにも感銘を受けたのだろう。

ともさんは棒立ちしていた僕にてきぱきと指示を出し、緊急のオペの手はずを整えた。

 ともさんは、それこそあっと言う間に頼れる男の実力を示して見せた。

僕がガーゼで圧迫止血をしている内に、素早く鎮静鎮痛剤と局所麻酔薬を注射し器械を準備した。

鎮静鎮痛の頃合いを見て、目にも止まらぬ早業で傷のトリミングと止血。

続けて縫合をやり終えたのだ。

 ともさんの仕事はあまりに鮮やかだった。

処置の手順に迷った僕とともさんでは臨床獣医師としての格が違う。

そのことをまざまざと見せつけられた思いだった。

どれ程文献を読み込み、講習会に参加して最新の獣医療に通暁しようとも。

流麗な手技で見るものを魅了する魔法使いみたいな外科の腕や、クライアントの心を鷲掴みにする話術は手に入らない。

それは才能だからと凡庸な青二才は、心密かに溜息をついて自分を誤魔化したくなる。

ところが、飄々と仕事をこなす舞台裏で、ともさんがどれほど勉学に励み研鑽を積んでいることか。

そのことを僕は重々承知している。

 不出来な魔法使いの弟子という立場なればだよ。

愚痴るどころか言い訳すらできない有様だったね。


 ドラマの一場面みたいな公開外科セッションは滞りなく終了した。

るいさんは僕の存在を完全に無視して、ともさんに憧憬と敬意のこもった眼差しを向けた。

目の中でハートマークを点滅させながら、るいさんは情けも容赦もなく言い放ったものである。

「先生、本当にありがとうございました。

一時はどうなることかと思いましたが、これでひと安心ですわ」

“一時はどうなることか”とのくだりで、るいさんは確かにちらりと僕の方を見た。

僕は心の中で白旗を揚げた。

そうして最初の一歩を踏み出す前に滑って転んだ我がロマンスに、僕は潔く別れを告げた。

 まあ、そんな戯言などはどうでも良いことだった。

子猫が、思いもかけぬ災難でドラエモンになってしまった。

そんなことも、大局的に見れば些末なことだった。

その日一番の出来事はなんと言っても、あいつとの出会いにあったのだから。


 「バスケットの中の、あの大きな猫はいったい誰なんです?」

これ以上傷口が広がらない内に話を変えよう。僕は戦術的転進を図るべく、何気ない風を装ってるいさんに尋ねてみた。

起承転結の起と承が済んだのだから転へと持ち込もうと画策したわけさ。

るいさんはともさんの方にうっとり顔を向けたまま口を開いた。

コアントローのように甘く香しく、頓馬な青年の酩酊を誘う魔性の声だった。

「にゃんたさんですか。

昔からいるうちの子なのですけれど、滅多に帰ってこないのです。

けれどもにゃんたさんは子猫の保護者なものですから、今日はどうしても付いてくると言って」

「保護者ですか?」

そうなのです。

元はと言えばこの子は、わたくし共がこちらに越して参った当日。

にゃんたさんが何処からか拾ってきた子なのです。

まだうちに慣れていなくて。

にゃんたさんの姿が見当たらないと隙を見て表に出てしまうのです。

今朝もそれで行方が分からなくなってしまって」

るいさんに再び自責の念が湧き上がってきたのだろう。

切なげな、耳に心地良い半泣きのお声をもう一度聞くことができた。

ここだけの話。

そのことは不謹慎だがゾクゾクするほど嬉しかった。

同時にべそをかいたお姿を眺めれば、これはもう眼福としか言いようがなかった。

 そんな一連の慌ただしさの中。

スキッパーは待合のベンチに寝そべったままだった。

そこから一部始終を見ていたスキッパーだった。

ふとスキッパーの僕に向ける目が、蔑みの色に染まっているのが分かった。

スキッパーの視線で僕は我に返り、自分の心根を深く恥じ入ることだった。

「この子を病院に連れてこようとした時。

たまたまにゃんたさんが帰って来てくれて。

バスケットに子猫。

ピースケちゃんって言うのですけれど。

そのピースケちゃんを入れたらにゃんたさんも潜り込んできて・・・」

 いつの間にやらあいつ。

にゃんたはバスケットから這いだしていた。

よく見れば、にゃんたは待合のベンチで寝そべるスキッパーの足元にいた。

にゃんたはのんびり顔を洗ったり毛づくろいをしたりしていた。

驚いたことに、ふたりは既に顔見知りのようだった。

それなりに気心が通じ合っている風にも見えるから驚きだ。

ふたりは友達としか思えない。

いったいふたりは何時何処で出会ったのだろう。

気難しいスキッパーが友達を作るなんて、珍しいこともあるものだった。

 「さあ、にゃんたさん帰りますよ。

ピースケちゃん、今日は入院ですって。

スキッパーちゃんもごきげんよう。

それでは先生。

ピースケちゃんのことを宜しくお願いいたします」

るいさんはともさんに深々とお辞儀をした。

僕に対しては、一目で使い捨てと分かるお愛想笑いを下しおき、軽い黙礼で義を果たした。

にゃんたはのっそり立ち上がるとスキッパーに丁寧な挨拶をした。

ともさんと僕には冷たい一瞥をくれ悠然と出口に向かった。

僕は威風堂々と肩で風切るあいつの姿にすっかり圧倒されてしまった。

にゃんたはるいさんの後から外に出る刹那。

すっと尾を立てると慣れた感じでそれをふるわせ、ドアのヒンジにスプレーした。

彼は振り向きざま自分のかけたオシッコの臭いを軽く確認した。

そうして病院内をもうひと睨みすると。

スキッパーだけには再度目礼して、ゆっくりるいさんの後を追った。

 「あいつ、入口にスプレーしていきましたよ」

僕はハイターと雑巾を用意する手間を思い溜息をついた。

「感じのいい子だなー」

「何ですあのやくざみたいな猫。

スキッパーも友達なら行儀良くしろって言ってやってよ」

僕の苦言にスキッパーは尻尾はおろか耳すら、ピクリとも動かさなかった。

「いくつかなー。

大学生かなー。

意外と胸大きかったなー。

着痩せするたちかなー。

いい匂いもしたしなー」

僕の言う事など誰も聞いちゃいなかった。 

「ともさん!」

「あっ、ハイターで拭いといてね。

後で臭うといけないから」

ともさんは心ここにあらずと言う体でなにやらぶつぶつ呟きながら奥に引っ込んでしまった。

勇者モードはとっくに解除になっていた。


 これが、あいつ。

にゃんたとの出会いだった。


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