垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達〜
第13話 ファム・ファタール 10
ラジオからはレイモン・ルフェーブルの“哀しみの終わりに”が流れ出す。
ジェットストリームの定番曲だ。
「確かに夜間飛行に音楽って言うのはいいもんですね」
「でしょ、でしょ。
マドカとこうしてふたりきりで飛ぶのは楽しいわ。
もうマドカの居ない人生を考えることができないように、ユキの居ない人生もわたしにはあり得ないのだけれども。
それでもね『いつまでもふたりきりならどうだったろう』って、考えてしまうこともあるの」
僕は口を閉じたまま黙って先輩の話に耳を傾ける。
「マドカも知っての通り、ユキには隠し立てなんてできないから、わたしの小さな恨み言のことは彼女もちゃんと心得ているわ。
あの子は優しくて賢いから、いつだって自分はお邪魔虫ってプラカードを掲げて微笑んでいるの」
「回路を作っているときですか?」
「そう。
だけど、わたしと対等と言う意識もちゃんと持っていて、佐那子さんが加わってからはそれを隠そうともしなくなった。
もう腹も立たないくらいわたしとユキはお互い素通しですからね」
「僕・・・なるべく他所の女の人とは関わらないようにします」
僕だって反省しているライナス程度になら神妙な顔付きができる。
相手がルーシーだけに。
「それは賢明な心掛け。
わたしたちはボンドガールでもチャーリーズエンジェルでもありませんからね。
できれば、もうこれ以上お仲間が増殖しないようにお願いしたいわ」
先輩はこれから潜水を始めようとするウンディーネのように深く深呼吸をする。
今宵は手をつないで飛んでいるので、先輩の横顔がしっとりとした油画美人さながらに月の光で濡れるのが見て取れる。
「・・・ンッ、何?」
「今ちょっと先輩のご尊顔を拝していて“オンディーヌ”を連想しちゃって」
「ジョン・ウイリアム・ウオーターハウス?
・・・ほんとう、そうかもしれないけれどそうでなくてよかった。
マドカにとってね」
「それってどういうことです?」
「マドカはウンディーネがどんな妖精だかご存知?」
「絵は見たことありますけど、あれって妖精なんですか?」
先輩は時折僕だけに見せる特上の笑顔を浮かべる。
それはそれはスペシャルなかんばせだ。
例え先輩が毛糸の帽子を被ってゴーグルをつけていても、先輩の笑顔は僕には真昼の太陽の様に明らかだ。
「ウンディーネは水の妖精。
そして本来は魂を持たない妖精なの。
人間の男性と恋に落ち結婚して子供が生まれると、初めて自分の魂を持つことができる。
けれどもね、ウンディーネは愛する人に酷いことを言われてしまえば元居た水辺に帰らなければならない。
もし夫が不倫でもしようものなら浮気相手を殺めなければならない。
そうしたちょっとあれな掟に縛られてすらいるの。
ウンディーネは愛に破れて水辺に帰るはめに陥れば、せっかく手に入れた魂を再び失ってしまう定めにもあるわ。
本当に切なくて理不尽なお話。
ウンディーネを愛した殿方は人として、倫理以前の当たり前のことすら守れないほど不誠実な方ばかりだったのかしらね。
ウンディーネの恋は悲恋に終わることが多いみたいなの」
「それって見方が偏ってますよ。
誠実な夫に対して浮気者のウンディーネだっているはずですよ。
僕なんか一日何回三島さんに検閲されてるか知ってるでしょ?
浮気だなんて火中で栗を握りしめてそのままローストされるような真似をしでかす自由が、いったい僕のどこにあるって言うんですか。
それこそ生涯、僕にとっては先輩と三島さん以外の女性は絶対禁忌みたいなもんでしょ?」
「マドカはわたしが浮気するかもって思う?」
「御冗談を。
先輩を疑うなんていう神聖冒瀆(しんせいぼうとく)に踏み込むくらいなら、僕は修道院にでもはいりますよ」
『先輩はファムファタールって噂もありますけどね』と言う余計な一言はもちろん胸に止める。
幸いなことに今夜、三島さんは一緒に飛んでないからね。
状況をうまくこなせたとほくそ笑んでいると、先輩がいきなり僕に抱き着いて胸に顔を埋める。
先輩は可愛らしい声で「くんくん」と匂いを嗅ぐ時のオノマトペを発した。
「『くんくん』って、なんですかそれ?
・・・駄目ですよ。
パイロットがよそ見しちゃ」
「・・・このままずっとふたりぼっちでいれたらね」
先輩のくぐもった声が聞こえるが、僕は少し両腕に力を籠めると先輩の甘い吐息を聞きながす。
そして僕たちの前方に何か危険が待ち構えていないか、よりいっそうに注意力を集中した。
なんだか心の羅針盤にあかりが灯るような気がして、体中に暖かな波が広がっていくのが分かる。
『規格外の内面と外面で真正面を見据え、背筋を伸ばして誇り高く生きる女性を、凡俗はファムファタールと呼んで恐れるんですよ。
僕らはこうして力を合わせれば、空を飛べちゃいますからね。
正に比翼の翼じゃないですか。
だからね。
僕はいつの間にか凡俗の壁を跨ぎ越しちゃいましたよ?』
この場に三島さんがいなくて本当に良かった。
僕たちの関係性の難しさは、言わずもがなのちょっといい話が、まるっとふたりに筒抜けになっちゃうと言うところなんだよね。
ふたりだけの空は冷たく澄んで、夜明けまではまだ遠い。
僕はそっとラジオのスイッチを切り、先輩を抱きしめたまま星降る大気に身を任せる。
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