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とも動物病院の日常と加納円の非日常

東京大空襲<転> 11

 東京大空襲の夜。

落下傘降下したレノックス少佐に声を掛けて来た日本人は、髪と顎髭が白い初老の男だった。

銀縁の眼鏡をかけ左手に蝋燭を光源とした提灯、右手にくたびれた黒い鞄を下げていた。

日本の提灯と言えば、レノックス少佐は野外パーティーの会場にぶら下がっている華やかなそれしか見たことがなかった。

男の持つ提灯は美しく彩色されている訳でもなく、やけに暗くて貧し気なものだった。

灯火管制下でもこれほど頼りなく貧相な光なら許されるのだろうか。

それでも提灯の灯かりに照らされて、暗闇に浮かび上がる男がまとう白衣の白さは際立っていた。

男の白衣は狂犬病の予防注射を思い起こさせて、スキッパーの心を妙な具合にざわつかせた。

「アメリカノ兵隊カ。

火付ケノ下手人ダナ」

戦時とは言え、見るからに異常な状況に於けるあからさまに異様な出会いだった。

それでも、スキッパーには理解できない言葉を話す初老の男は、なぜか落ちつき払っているように見えた。

「失礼ですがドクターでいらっしゃいますか。

落下傘降下して、わたしは足を痛めてしまったようなのです。

お手数ですがどんな具合か診て頂けると有難いのですが」

スキッパーとしては、椿事にも動じる気配のない日本人の男には心底ビックリだった。

そうは言っても場にそぐわぬ頓珍漢振りは、もしかしたらレノックス少佐の方が一枚上手かもしれない。

スキッパーは改めて、少佐の場違いで素っ頓狂なお願いに、驚き呆れた。

敵国の人間がおそらくは日本語で話しているのにも関わらず、少佐は実にあっけらかんとした笑顔を浮かべた。

そうして『僕怪我をして困っちゃてるんです』とテキサス訛り丸出しの英語を使って助けを求めたのだ。

いずれにせよ、唖然として双方の顔を交互に見やるスキッパーの口は、しばらく塞がりそうに無かった。

「足に怪我をしたのか?

よそ様の家に断りも無くずかずか踏み込んできて、無法な乱暴狼藉をはたらきおるから罰があったのだろうよ。

どれ見せてみなさい」

いきなり男は英語で話し始めた。

しかも驚いたことに男の英語はボストン訛りで、話し手の高い教養を伺わせる落ち着きと品があった。

スキッパーはハーバード出身を鼻にかける、いけ好かない副操縦士の顔を思い出した。

 白衣の男はしゃがみ込んで鞄を置くと、少佐の痛めた足に提灯の灯かりをかざして触診を始めた。

「英語がおできになるのですね」

「・・・ケンブリッジで教師をしていた。

仕事半ばだったが帰ってこざるを得なかった。

君もそら、こうして骨身に沁みただろう。

洋の東西を問わず、バカどもが力を持つとろくなことにならないということの証左だ。

どうやら骨折はしてはいないようだな。

左の膝と足首の靭帯を痛めている。

暫くは疼痛が続くだろう。

医療キットの中に鎮痛薬が有ったら飲んでおくとよい。

モルヒネは使うな」

「骨は折れてませんか。

ありがとうございます。

少しほっとしました」

「靭帯をやると長引くからな。

ちゃんと治療しないとまずいぞ。

安心はしてられないよ。

悪いが私は往診の途中だ。

バカどもがどれだけ人を殺そうと、新しい命は生まれてくる。

順調にいけば夜が明けるまでには君らの敵がもう一人この世に増えると言う勘定だ」

「・・・申し訳ありません。

どうお言葉を返してよいのか、今のわたしには分かりません。

ただ赤ちゃんが無事に生まれることを祈る気持ち、それだけは確かにここにあります」

レノックス少佐はそっと胸に手を置いた。

「私がこう言うのもなんだが、君もめっぽう変わったやつだな。

・・・人目に立つと面倒なことになる。

せがれを迎えに寄こすから、森の中で息を潜めていなさい。

心配するな。

せがれは私より英語が上手いし成り行き上米国の国籍までもっている。

・・・その犬はもしかしたら君の犬か?

やれやれ戦場に犬連れとは優雅なことだ」

スキッパーは尾を立てて軽く尻尾を振ってみせた。

圧倒的に不利なこの情勢を考えて見れば、男の不興を買う訳にはいかないと判断したのだった。

もとよりこの国のホモサピと敵対する気など、はなからスキッパーには無かったのだが。

「こいつはスキッパーと言います。

わたしの相棒です。

申し遅れましたが、わたしはアメリカ陸軍航空隊所属フィリップ・レノックス少佐です」

レノックス少佐は足を投げ出したままだったが上半身だけで威儀を正し、男に対して身分を明かした。

「B29のパイロットだな。

・・・私は田山源。

見ての通りくたびれた町医者だ」

ドクター田山はそう名のってから自嘲の笑いを見せ、鞄を手に大儀そうに立ち上がると踵を返して歩きだした。

レノックス少佐とスキッパーは、提灯をぶら下げて一度も振り返ることなく飄々と立ち去るドクター田山を、しばらく見送っていた。

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