垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達~
第18話 アプレゲールと呼んでくれ 6
結論から言えば佐那子の思惑は外れた。
この日に中年男の大きなアクションは無い。
中年男が円と仲良しなルーシーに戸惑いを見せることはなかった。
中年男はまるで予め円の存在を承知しているかのように冷静だ。
彼は時々メモを取りながらふたりからは距離を取る。
そうして、オリンパスペンと思しき小型のカメラを何度か取り出す。
彼はそれとなくふたりにレンズを向けてはシャッターを切る。
それだけで満足のようだった。
翌日開かれたミーティングでは開口一番、佐那子が苦々し気に言い放ったものだ。
「同業者かと思いましたよ。
さりげなくおふたりを尾行しながら写真まで撮る。
あれはまるで素行調査をしてる探偵の振る舞いですね。
敵は円さんの登場で、あからさまな分かり易い行動をとるかと思っていたんですよ。
とんだ見当違いでした。
ストーカーから探偵に業務シフトですからね。
私の予想は大外れで、完全に肩透かしを食いました」
ことが凶事に及ばなかったことに一安心と言いながらも、どこか不服そうな佐那子である。
「まぁ、確かにおかしいと言えばおかしかったのですよ。
初日からあの男には、尾行をつけて身元を割る調査活動も実施していたのですけどね。
動きが歳の割に機敏と言うかなんというか・・・。
言い訳するつもりじゃないですけど。
うちの社員も決して無能では無いのですよ。
けれどアジトを突き止めるのに四週間もかかってしまいました。
ルーシーさんには、四週間で八回のお稽古があったのですが、男の現われた日はその内四日でした。
お稽古は毎週火曜日と金曜日で、男が現れるのは決まって金曜日でした。
それでですよ。
・・・昨日漸くアジトを突き止めることが出来たと言う訳です」
「そんなに尾行って難しいものなのですか?」
今のところ後衛に回っていて出番のない雪美が、興味津々と言う無邪気な表情で身を乗り出す。
「面目次第もありません。
でもですよ。
あの変態中年、行動が妙なんですぅ。
初日はお稽古を終えたルーシーさんが豊田駅の改札に入っていくのを見届けると、後を追いもせず南口の方へ歩き出したんです。
そうして人気のあまりない道を進んで、平山橋と言う浅川に架けられた橋を渡りました。
橋を渡りそのまま土手を歩いて、京王線の平山城址公園と言う駅にたどり着きました。
変態中年は切符を買い、上り新宿行に乗ったのです」
「きちんと尾行できてるじゃないですか」
雪美が『なーんだ』という顔をする。
「変態中年が駅の構内に入るとすぐに電車が来ました。
慌てて後を追ったのだけれど電車は行ってしまいました。
ホームを見たら姿が無かった。
だから変態中年はその電車に乗ったのであろうと・・・それだけです。
人気のない道。
車もあまり通らない橋。
誰も歩いていない土手の道。
部下を庇う訳ではありませんが、尾行する側にとっては最悪の舞台構成ですよ。
何とか気付かれないように、変態中年を追跡して得られた情報は、それだけでした」
「ならば、あらかじめ駅で待ち伏せすれば良いのでは?」
円が偉そうに口をはさんだ。
「円さん甘いですね。
おお甘です。
変態中年は存外頭を使ってます。
初日の行動は自分が見張られているかどうかの確認だったに違いありません。
やましいことをしてるって自覚してるんでしょ。
だからでしょうね。
二回目は駅前でいきなりバスに乗られちゃいました。
駅に配置した人員は待ちぼうけ、車の手配まではしていなかったので見失いました。
長房団地行のバスだったのであたりをつけて、八王子の派遣先にいた部下に急遽連絡を取りました。
部下は首尾よく京王八王子駅前の停留所で、変態中年が豊田から乗ったバスをインターセプトしました。
けれども彼はそのバスの乗客の中にはいなかったんですよ。
何処か途中で降りたんでしょうね。
三回目はルーシーさんの後から豊田駅の改札を通り同じ電車、東京行の特別快速に乗りました。
変態中年はルーシーさんが特快から各停に乗り換える三鷹で降りずに、そのまま新宿まで出ました。
結果、新宿駅でラッシュアワーにかかり、変態中年の姿は雑踏の中で見失いました。
昨日の四回目ですが、再び南口に出て第一回目と同様平山橋に向かって歩き始めました。
けれども橋を渡った変態中年は土手を今度は下流方面に向かったのです。
今回は南平駅から新宿行に乗り込みました」
「また失敗だったんですか?」
雪美が痛ましそうな目をする。
「ふっ。
プロをなめないでください。
今回は尾行人員を増やし、車も北口南口両方に待機させました。
京王線での待ち伏せだって、平山城址公園駅と・・・。
そんなこともあろうかと南平駅にも部下を配置したのですよ。
もちろん前回ラッシュに紛れてヤツを見失った新宿駅にも、十人以上の人員を割きました」
佐那子が目を輝かせながら『どんなもんだい』と肩をそびやかしてみせる。
「ぶ、物量戦にでたわけですね。
金に糸目は付けないってやつですか」
円が呆れると言うより少し怯えた調子で合いの手を入れる。
「お金に糸目をつけないだなんて人聞きの悪いことを言わないでください!」
佐那子はびくっとして目を揺らした後、すぐに気色ばんだ口調で円を睨んだ。