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垂直少年と水平少女の変奏曲〜加納円の大いなるお節介と後宮の魔女達~

第18話 アプレゲールと呼んでくれ 37

 そうして終戦を迎える頃には、大きさも深さも測り知れない虚ろな喪失感が残った。
夏目はまだ十七歳の少年だった。
親族や友人知人を失い、残された財産を証明する手立ても全て灰燼と帰したのだ。
 夏目は自分の歩んできた道そのものが消失したことを。
彼の人となりを記憶する人間が、事実上この世のどこにもいなくなったことを。
冷厳な事実として悟った。
 戦災で焼けたものの彼が在学していた旧制高校には、僅かながらでも夏目総司という人間の記録が残っていたろうか。
しかしながら夏目の頭には、復学という言葉は一度も浮かばなかった。
学費を賄うどころか、闇市で芋の切れ端を手に入れる金銭さえままならなかったのだ。
 終戦の八月。
夏目はそうした普通の人間なら耐えられそうにない絶望的な状況にあった。
だが不思議と自ら命を絶つという当時流行りの選択は思いつかなかった。
住む場所さえ失った夏目はただ生きんがため。新宿の焼け跡にできた闇市を主戦場とすることになる。
 思いつく限りできそうな事ならどんなことにも手を染めた。
できそうにないと思えても、金になりそうなら実行に移した。
夏目は戦後社会の混沌の真っただ中で虚無感を抱え込み、日々の刹那を自らの生に刻みこんだ。
腕力が命じ体力が許す限界を超えて獣のように生き抜いた。
 男娼の真似事からヒモやポン引き女衒の類などは朝飯前だった。
詐欺と博打に拳銃強盗。
果ては労働争議ゴロやヤクザの使いっ走りにまで手を染めた。
夏目は強者に媚び弱者を食い物にしながら、ひとりアプレゲールの青春を生きた。
 下山事件、三鷹事件、帝銀事件等等が代表する戦後の重大事件は、正に混沌の時代を象徴する出来事だった。
占領軍の軍政下で引き起こされた無軌道で放埓な謀略や犯罪の数々は悪徳の手本となった。
戦後の世相は野放図な法網破りに加担する夏目の悪意を逞(たくま)しく鍛えあげた。
時代はそうしてニヒリスティックに変貌した彼の暗いエゴを、すくすくと育てていく糧ともなったのだ。

 やがて朝鮮戦争が始まり、半島で流される血の量に正比例する形で日本の経済が上向きになり始めた。
ちょうどその頃、夏目は自分の身体の異変に気付く。
それは夏目が特需景気に乗じて、とある信金を舞台にした取り込み詐欺を差配したことに端を発する。
思っていた以上に事は上首尾に終わり、夏目はチンピラ風情には過ぎた大金を掴んだ。
 儲け話以上に、儲けた金に衆目の集まる無法地帯のことである。
夏目が根城にしている新宿では未だ“戦後焼け跡闇市”は健在だった。
桜の代紋を引っ提げたお巡りなぞはちっとも怖くなかった。
だが濡れ手に粟を見逃すはずもない俱利伽羅紋々の地回りは心底怖かった。
 「人の噂も七十五日って言うじゃねーか」
夏目は『ほとぼりが冷めるまでだよ』と臆病風をごまかして、新宿を離れることにした。
懐はかつて無いほど暖かかった。
そこで当時構いつけていた女を誘い、柄にもなく箱根での湯治と洒落込むことにした。
 取るものも取り敢えず、夏目は女を連れて小田急線の特急に飛び乗った。
折からの好景気もあり、新宿から箱根湯本まで直通のロマンスカーが、増発されていたのだ。
湯元の宿に付くと、早速女を連れて街中に繰り出す夏目だった。
『ここんとこ緊張続きでくたびれきっちまったからな。
存分に羽を伸ばそうや』
そんな気楽な気持ちを無理にでもあつらえて女を連れ回す。
 湯治客で賑わう土産物屋や遊技場を冷やかしながらそぞろ歩くうち、夏目はふと散髪することを思い立つ。
赤白青の斜線がぐるぐる回るサインポールが、生まれ育った街の理容店のそれと似ていたのだ。
夏目は久しく思い出すことのなかった日常の一コマ。
堅気の頃の何でもない習慣が懐かしくなったのかもしれない。

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