ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #177
第十二章 逢着:11
チェスターは兵学校で生物学を履修した際、特殊な例外を除き後天的に獲得した形質は次の世代には遺伝しないと習った。
個人の記憶など後天的に獲得する形質の最たるものだろう。
自分の持つ歴史記憶は、ヨーステンのご先祖様一人一人がエマノン効果で書き起こし、驚異的記憶力で蓄積した個人の記憶に間違いない。
ならばそれは生物学の言う特殊な例外に当たるのだろうか?
兵学校の練習航海で訪れたトランターは、歴史記憶の意義を知る上で、チェスターにとり人生のターニングポイントとなった。
アリアズナの祖母、先読みのケイちゃんことドレーク提督が、なぜヨーステンの秘密を知っていたのかは分からない。
顔を合わせて開口一番。
「あなたのお父様とお母様には仲良くさせていただいたわ。
あなたにはどことなくお父様の面影がある。
そうは言ってもあなたは、断然お母さま似ね!」
ドレーク提督は初対面だと言うのに、チェスターの顔をしげしげと眺めた後そう言い放ったものだ。
恐らくドレーク家とヨーステン家の間には古来、なんらかの交流があったのは間違いない。
何と成ればドレークの父とコバレフスカヤの母から生まれた女子のみが索引者の能力を発現する。
ヨーステンとしてはドレークの男子かコバレフスカヤの女子を見張っていれば索引者の誕生を予測できることに成るわけだ。
そう考えるとヨーステン家とドレーク家にあった交流の真相が見えてくる気がする。
父ばかりでなく、他ならぬチェスターが憶えていない母の顔を、ドレーク提督が見知っていることにも納得だった。
ドレーク家が索引者についての伝承を失っていたことを考え合わせれば、生前の父母と親しかった頃の提督がヨーステン家の役割を承知していたとは思えなかった。
時系列を考えれば、ドレーク提督は索引者の秘密を知るはるか以前に、チェスターの父母と親しかったことになるからだ。
ヨーステンの立場からすれば守護者であることはともかく、削除者であることは絶対に伏せておきたい裏事情だったろう。
彼女は、孫娘の生命を守るために相当な無茶をやったと聞いている。
そこから考えると、あるいは極悪非道な計画の遂行中に、偶然ヨーステンの秘密を知った可能性もあるだろう。
兎にも角にも、チェスターは本来であれば父親から伝えられるべきだったヨーステンの秘密を、ドレーク提督から聞かされることになった。
ヨーステンの男子はドレークのミドルネームを持つコバレフスカヤの女子を監視守護する責務を負う。
同時に索引者の能力が悪用される危険性を最小限にする歴史的義務がある。
どうしても彼女=索引者を守り切れないと判断した時には、生命保護から殺処分へと扱いが百八十度変わる。
守護していた女性ばかりでなく、状況によってはドレークやコバレフスカヤの名を持つ彼女の親族を根絶やしにすることまで求められる。
歴史記憶は単なるロージナ史の記録に止まらず、ドレークやコバレフスカヤの所在を認識するための情報源としての役割も持つ。
ドレーク提督はそれこそ顔色一つ変えず、むしろにこやかにそうチェスターに告げたのだ。
『この女正気か?』
少年だったチェスターは本気でそう思った。
探し求めた歴史記憶の意義はそうやってチェスターの腑に落ちた。
ヨーステンと言うシステムはドレークとコバレフスカヤというシステムを未来へ繋ぐために存在した。
そしておたっしゃクラブと言う胡散臭い組織が、二千年もの間存続してきた理由の一つが、システムドレーク・コバレフスカヤとヨーステンの支援だと言うのだから話は法外だった。
どうりで答えは歴史記憶の中に見つからなかった訳だ。
今までおたっしゃクラブの名前は歴史記憶の中で見たことはなかった。
どうやら父子相伝の口伝による解除キーがなければ、おたっしゃクラブの役割は明かされない仕組みになっているらしい。
チェスターが父親から解除キーを告げられていたならば、おたっしゃクラブの運用を含めたヨーステンの能力がフルバージョンで発動したのだろう。
それは暗示の解けたアリアズナが見せた、能力の開花みたいなものかもしれない。
しかし解除キーを知る父親はもういない。
ヨーステンの概要を伝えたドレーク提督も解除キーの存在は知らなかった。
チェスターは、自分がヨーステン的には実に中途半端な、半覚醒にも及ばない状態である事を知った。
あるいは他のヨーステンと出会うことがあれば解除キーを教えて貰い、閉ざされた能力を解放できるかも知れない。
だが解除キーが共通であるとは限らないし、同じ能力保持者がヨーステンを名乗っていると言う保証はどこにもなかった。
ドレーク・コバレフスカヤを守護しあるいは抹殺する家系は、ヨーステン以外にいくつもある可能性は大きい。
考えてみればその方が合理的であるとチェスターには思えた。
それもこれも、真実はチェスターの封印された歴史記憶の奥底にしまい込まれているのだろう。
ドレーク提督と言う天才的軍人が、アリアズナの父系親族であったことがそもそもの混乱の始まりだったのかも知れない。
もしかするとドレーク提督がアリアズナやその姉と母親を守ろうとした働きが間違いの元だった可能性もある。
ドレーク提督の徹底的な仕事が、本来ヨーステンやその眷族が担うはずだったドレーク・コバレフスカヤの保護プログラムを、破壊した可能性すらある。
ここに至ってチェスターはそう思うようになっている。
どちらにせよセーブモードで起動したチェスターは、歴史記憶を担う守護者兼削除実行者としては中途半端な存在だった。
それだからこそ、当代に於けるヨーステンであるチェスターの配役はドレーク提督が決め、采配を振ることになったのだろう。
歴史の生き証人に成ると同時におたっしゃクラブを使って索引者を守り、条件が揃えば彼女を亡き者にする。
守護者=ガーディアンと削除実行者=デリーターとはそういう役割の者だと言う。
ドレーク提督に出会うまでチェスターは、自分が取らなければならない具体的な行動についてなぞ、考えたこともなかった。
だが、先祖代々血で受け継がれてきた歴史記憶は、チェスターが取るべき行動を義務だと断じる。
チェスターが身に付けた逃げの人生訓から考えれば、ヨーステンのそれは最早呪いとしか思えない枷だった。
ドレーク提督にチェスターのレゾンデートルとまで言わしめた歴史記憶に、そこから生じる義務感に、捕らわれない生き方ができるだろうか。
もしそうした生き方が本当にできるのならば、チェスターはこのレベッカへの深い愛情を信じるところから、初めてみようと思ったのだった。
しかしながら、禁忌を破りヨーステンの秘密をレベッカに打ち明けたところで、それを彼女に受け入れてもらえるかどうか。
なぜ今まで黙っていたと詰られることはさすがにないだろうが、ふたりの間に将来男の子が生まれる可能性を考えたらどうだろう。
武闘派の傾向があるレベッカとはいえ、母の顔になれば全く違った思想を打ち出して来るだろう。
自分の腹を痛めた子供に、呪いが掛かることを見過ごす母親がいる訳がない。
ヨーステンの男子たる自分だって、我が子にはそんな重荷を背負わせるのはまっぴらごめんなのだ。
義務感との葛藤はあるが、何の罪科の無い少女を殺めるなど、自分にはとてもできそうにない。
ましてや息子(仮)にそんな義務感を負わせたくはないし、暗殺者の役を割り振るのも絶対に嫌だ。
歴史記憶の意義を父親から伝えられていたのであれば、チェスターもあるいはまったく違った考え方をしたかもしれない。
解除キーが解放したはずの歴史記憶は、チェスターの生き方を根本的に変えてしまうものだったかもしれない。
だがしかし、チェスターは歴史記憶の意義を、解除キーがないままドレーク提督から聞かされたのだ。
いい加減で適当が大好きなチェスターではあった。
だがそんなチェスターも、守護者と削除実行者の間にある矛盾、例えるなら卵の孵し方と卵の調理法については、真面目に考えざるを得なかったのだ。
コバレフスカヤを守ったり根絶やしにする矛盾の真意は、解除キーが無ければ知ることはできない。
近いうちにこうした歴史記憶にまつわるヨーステンの秘密をレベッカに打ち明ける決心はついていた。
『はたしてレベッカは、ヨーステン家の男子に漏れなく付いてくる、エマノン効果と歴史記憶のこと。
守護者と削除実行者の義務感を理解し受け入れてくれるだろうか』
ちょっと自信はあった。
なぜなら父親から解除キーを知らされなかった自分は、息子(仮)の歴史記憶を解放することは叶わないのだ。
なんとなればヨーステン家の使命はチェスターの代で潰えたとも言い換えることができる。
今回のアリアズナの一件が無事解決すれば、ポンコツヨーステンは歴史的使命の幕引きを宣言してやっても良いのではないかとも思っている。
なんとも説得力のある言い訳ではないか。
だから自信はあった。
自信はあったが、ことはふたりの愛情の根幹である信頼にも関わる問題だけに、やるせない思いに捕らわれた。
気弱にだってなるチェスターだった。