とも動物病院の日常と加納円の非日常
東京大空襲<結>
常識から大きく逸脱する記録や言動は、第三者目線で見やればどうだろう。
やはり馬鹿げた世迷言としか解釈のしようがないのじゃなかろうか。
僕は常識では説明のつかない珍現象に痛いほどの覚えがある。
自分が引き起こす珍現象を恐れるあまり、中世に盛んだった魔女狩りを連想したこともある。
そこから想像を巡らせれば、ご婦人や歴代のご当主の不安や気鬱が、少しは理解できるような気がする。
先進国では情報化が進んで、迷信を筆頭とする無知蒙昧の眷族はすっかり居場所を失った。
そいつらは科学の光の届かない信仰や妄想の暗がりの中へと逃げ込んだ。
無智と非合理がお笑いのネタに身をやつしてから随分と時が経つ。
この世界には、知性と教養を重んじ理性をもって生きることを当たり前と心得る人々がいる。
そんな人々が一定数以上存在する現代では、魔女狩りなぞ容易に起き得ないだろう。
僕は今までそう信じてきた。
だが自分が生まれた時代に安堵しつつも不安が兆した。
理性がぶっ飛ぶような現象を目の当たりにしたら、人はどう思うだろう?
積み上げた知性や教養を踏みにじり、常識を嘲笑うトンデモ話が目前で展開したらどうだろう。
しかもそのことに反論の余地を見つけることができなかったら、人は何を感じるだろう?
もしどこぞの御用学者や政治屋が、それを人類にとって危険な不都合であると言明したらどうなる?
人は真実を何処に見つけるのだろう?
よくよく考えてみれば中世の教会は、同時代のエリートが集う知性と教養の府だったはずだ。
異端審問官だって免罪符に大枚をはたく庶民よりは理性的な人間だったろう。
詰まるところ人は、権威や権力の維持と富を獲得するためならば、魔女をでっちあげて火あぶりにだってできる。
それもまた、知性と教養を下敷きにした理性のなせる業だ。
二十一世紀間も間近に迫った現代の人間はどうだろう。
タイムトラベラーや空を飛んだり人の心操る人間の実在を許容できるだろうか。
未知なるものへの本能的恐怖は生じないだろうか。
権力や権威の恣意的弾圧、例えば異端審問や魔女狩りに加担しないだろうか。
存外、現代人の思考と行動は、石器時代や中世の頃と左程変わりはしないかもしれない。
そんな不安が僕の心に広がっていく。
ご婦人のご先祖様のことで、取り留めのない考えが思考の森を迷走する。
それにしても、タイムトラベラーとしてのエバンス中尉は、この五日市の地に降り立つ事ができてなんと幸運なことだったろう。
当家の人々や代官の酔狂が無ければ、あっさり殺されてしまった可能性も否定できないのだ。
僕は心の底からそう思った。
「・・・明治の頃に五日市憲法と言うものが作られたのですが、加納さんはご存知ですか?」
思考の森に彷徨い込み心ここにあらずだった僕にとり、それは唐突な問い掛けだった。
ご婦人も僕同様しばらくの間、口を閉じて物思いに沈んでいたのだ。
「五日市?
憲法?
何ですかそれは?」
僕は呆けたさまで問い返した。
「今から十年ほど前に、深沢さんというお宅の土蔵で見つかった文書のことです。
新聞記事にもなりました。
五日市憲法は明治の初め頃に、五日市で暮らす有志が作り上げた私擬憲法の一つです。
大日本帝国憲法が発布される遥か以前こと。
この国にまだ国民という概念すら定かではなかった時代に作られた憲法の草案です。
明治といっても幕藩体制の記憶がまだ色濃く残っていた時代の農民がですよ。
五日市と言う草深い田舎で、憲法を作ろうなどと言う大それた志を立てたのです。
日本中を巻き込んだ自由民権運動のうねりの中で生まれた高揚感が、大きな熱量を持った勢いとなったからでしょうか。
もちろん戊辰戦争やその後に続いた各地の乱の影響もあったでしょう。
未成熟な明治政府の強権指向が、ご維新を蔑ろにしていると思う人もいたでしょう。
『近代国家には国家権力を縛る憲法が是非とも必要だ』
文明開化に浮かれた人々が外国の立憲主義を知り、たぎる情熱を持ち寄って語り合ったに違いありません!」
ご婦人の理知的な瞳が若々しい色に輝き唇から綺麗な歯並びがのぞいた。
政治にも政治史にも全く興味が無い僕は、ご婦人の静かな興奮に少し驚いてしまった。
「・・・私擬憲法などと言うものがあったのですか。
それは知りませんでした。
民間で作られた憲法の私案なのですね」
「そうです!
その私案の一つ五日市憲法の創案に、わたくしの曽祖父も関わっていた様なのですよ!
五日市憲法は数多い私擬憲法の内でも画期的なものだったのです。
幕藩体制の骨格をリサイクルした王政復古の時代に、基本的人権の尊重と国民の権利を重視する条文が書かれていたのですからね。
大日本帝国憲法には組み込まれなかった初々しい思想です!」
「まるで戦後に出来た日本国憲法みたいですね」
「その通りです!
御存知の通り日本国憲法はGHQの監修で作られたも同然です。
当然そこには合衆国憲法の理念が強く反映されたことでしょう」
「・・・もしかしたら・・・」
「ええ、例の不良代官が残した文書の中に、男・・・エバンスさんから聞き取った合衆国憲法についてのお話が書かれていた可能性は大きいと思います。
残念なことにわたくしはまだ目にしておりませんけど、今度のことで自分の中で何か踏ん切りがついた。
そんな気がしてきました。
老後の嗜みとして学生の頃を思い出し、古文書の読み解きをしてみたくなりました。
加納さんのお陰様で、視点ががらりと変わりました」
「ヨタ話を信じてみようと言うお気持ちになりましたか?」
「それはまた別」
ご婦人は一瞬、蠱惑的な笑みを浮かべた。