見出し画像

ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #84

第七章 陰謀:5

 「いつぞやはどーも。

兵学校の教本に載ってしまうほどの。

得難い。

貴重な。

体験を。

させて頂きましたわ!   

あれ以来うちの娘達ときたら寄ると触るとあなたの噂話でもちきり。

光栄にも今日こうして直に御目文字が叶ってみれば、これがまたなかなか良い男前。

あたくし、お世辞抜きで胸が熱くなってしまいましたわよ」

「はあ」

進退きわまるとは果たしてこういうことを言うのだろうか。

それにしても、これは辛い任務になりそうだった。

 唐変木だの石部金吉だの実は女嫌いだの男好きだの、身に覚えの無い評判は散々なチェスターだった。

当人の与り知らぬところで暗躍するレベッカの情宣活動は、それは見事な手際だったということに尽きる。

おかげで十代の頃から、こと男女の密か事については、無いこと無いこと言われ放題で、大方の女子からはさり気なく距離を置かれた。

チェスター自身の自覚は、生まれついた遺伝子型が命ずる表現型のまま脳も身体も成長して人となった。

その結果チェスターの生理は自然と、若くて美しい女の人に見惚れてしまう。

レベッカに知られれば、後ろから刺し殺されかねない妄想に浸ることだってある。

レベッカは常日頃、同田貫とかいう業物を腰に佩いていた。

どうたぬきなんて変な名前だなとは思っていたが、免許皆伝の使い手であるレベッカが構えればどうだろう。

剣道には疎いチェスターも、その一振りの太刀がたちまち必殺の刃になることは、充分承知していた。

目まぐるしく視点が変わるステップを踏みながらチラリとレベッカの方を見ると、剣呑と言うよりは複雑な色を湛えた殺気が帰って来た。

ふと、“鞘走る”という言葉が頭に浮かんだ。

ゾクッと寒気がした。

ある意味ダンスのお相手が、目の前で楽しげに笑うこのレディでよかったと、それでも冷汗をかきながらホッとした。

チェスターは、少し邪な成分が無い訳では無かった今宵の高揚感を、こそっと修正したのは正解だった。

そう、あらためて胸を撫でおろしたのだった。

 今チェスターと共に軽やかなステップを踏むレディをレベッカはどう評価するのだろう。

遠目には妖艶と形容できるかもしれない。

近くに見ても彼女の整った顔立ちは、超古代ギリシャ彫刻のように美しい。

しかしてその実体はと言えば、豪華絢爛たるローブデコルテに身を包んではいるものの、ひとりの筋骨隆々たる偉丈夫なのだ。

けっして色白でししおきの良い、艶を含んだなまめかしい美女などではない。

当人の切ない意を汲んで評者の立場を百歩譲ったとしてもである。

華麗で躍動的なステップを踏む淑女はマッチョな美丈夫、それ以外の何者でもなかった。


『うぶで純情なおぼこ娘のあたし』


彼女は切なげにそう言い張る。

だが彼女こそは誰あろう、業界では知らぬ者のいない快男児。 

第七音羽丸船長ルートビッヒ・マオ・ブラウニング嬢その人だった。

 チェスターは異性愛者としてどこに出しても良し。

そんな太鼓判を押して貰えるほどにストレートなおのこだったが、やはり命は惜しかった。

ボールルームに足を踏み入れた時から、同田貫を携えたレベッカの気分を害するのは得策ではない。

鋭敏なチェスターの処世訓は、激しく警鐘を鳴らしていたのだ。

 それでも、職務上どうしても踊らなければならないのであるなら、チェスターにだって細やかな希望はあった。

レベッカから一先ず離れて任務に当たる際は、ブラウニング船長の連れの女性のどちらかに、土下座してでもお願いしたいところだった。

だがチェスターは、そうしたかないもしない願いを、最初からきっぱりと捨て去った。

邪な気分にはしっかり蓋をしたのだ。

となれば、ダンスにお誘いするレディは、頬を染めてはにかむ美丈夫以外にはあり得なかった。

 ジェンダーを跨いだ人の好みは自由自在だ。

ロージナでは愛情の多様性はあくまで個人的問題だった。

だからこそと言えたが、チェスターは自分の好みを大切にしたくもあった。

 次にレベッカと目があった時『これが任務でないのなら何が何でも君の手を取りたかった』。

チェスターは表情筋に目力を動員して強く訴えかけたのだった。

その気持ちに嘘偽りはなかった。

レベッカの殺気が和らいだように思えたのは希望的観測か?

 ブラウニング船長は、チェスターより背が高く、全身が無駄の無い筋肉で鎧われた堂々たる構えのレディだった。

レディでありながら太く逞しい腕と大きな手で、それでなくとも腰が引け気味のチェスターを、しっかりとリードした。

主客転倒したダンスだった。

それでも不幸なことに、二人のステップだけを見れば、技術的にはそれは見事なものだった。だからだろう。

踊る彼らの印象はなんとも珍妙な、冗談半分の見世物という趣向の域を出なかった。

それはスケール感のブレによるものだったか。

ありていに言えば、チェスターも決して背が低いと言うわけではなかったのだが、対するパートナーの身体バランスが立派過ぎた。

その上、長身で艶麗なブラウニング船長の軽やかな動きには、見るものが目を見張る高雅な気品がまとわりついていた。

なんとなれば、大人の女性に身を任せるきゃしゃな少年の様にしか見えないチェスターが、いっそ痛々しいほどに不自然だったのだ。

 「あたくしどもも今は民間のしがない事業者ですわ。

軍に居た頃とは事情が違いますしね。

あの遭遇戦の際に、ヨーステン艦長がご披露下さった操艦と戦闘指揮は、あたくしどもにとっては生涯癒えぬトラウマとなりましたことよ。

けれども退役後のヒートダウンした冷静な頭で考えてみれば、それはもうほれぼれするほど見事な対艦対空砲撃でしたわ。

かつて軍艦を預かった経歴を持つ者としては『あっ晴れお見事!』の一言しかございませんわね」

デコルテのラインからも伺われる、無駄のない圧倒的な筋肉にグイッと力が込められた。

チェスターは思わず悲鳴を上げそうになった。それでも、仇敵といえる自分に対する彼女の、拍子抜けするほどにあっけらかんとした隔意の無さには、痛みより驚きが勝った。

 本来であれば、初対面の淑女に対し礼を失した振舞であると、とがめ立てを受けても仕方が無いところだろう。

それでも彼は、いささか下方からではあったが、まじまじと彼女の顔を見つめてしまったことだった。

「まあ、いやですわ。

そんな目であたくしをご覧になっては」

まるでがんぜない生娘の様に頬を赤らめるブラウニング船長に、チェスターは言わずもがなであろう心の声を口にしていた。

「ええっと。

もの凄い美人さんなので、こうして見とれずにはいられないのに。

それなのに、僕には大事な人が居て・・・なんだか寂しくなってしまって」

「二人のダンス、何だかいきなりテンポアップしてませんこと?」

満面に蠱惑的な笑みを湛えたスペンサー掌帆長が、絶妙な曲線を描く口元を広げた扇で覆い、モンゴメリー副長に囁いた。

「ルートの引き攣った頬とあの悔し気な涙目を見てごらん。

ふたりの間で交わされている会話が、なんとなく想像できる」

モンゴメリー副長はモデルのような長身に、青真珠色のローブデコルテをまとっていた。

彼女は少し冷笑的な要素が入ってそうな笑みを口元に浮かべ、それでも楽しげな表情で二人のダンスを眺めていた。

 モンゴメリー副長とスペンサー掌帆長の美貌は会場でも一際人目を惹く清冽な気品に満ちていた。

一部の隙もないローブの着こなしと、上品で控えめなメイクやアクセサリーの選択だった。

だが、もしかしたらそうした装飾のこしらえは、ふたりの魅力にとってはかえって邪魔だったかもしれない。

ふたりは、それこそ名家の貴婦人を彷彿とさせる気高いたたずまいだけで、その空間を占有していたのだ。

ありていに言ってしまえば、高価そうな宝石も貴金属も、引き立て役としてまったく用をなしていなかったのだ。

 例えばこの場に、古代世界で数多の浮名を流したと言う光源氏やドン・ジョバンニが居合わせて、次なる獲物の品定めをしていたとしよう。

百戦錬磨の漁色家が迷うことはないだろう。

彼らはまるで強力な磁石に引かれる鉄片のごとく、このふたりに視線を固定して吸い寄せられていくに違いない。

だがいかに至妙な色事師の眼力と言えども見抜けぬことがある。

おそらく己のロックオンした佳人ふたりの艶姿からは、彼女たちの本職を想像することさえかなわないだろう。

会場でも抜きんでて眉目秀麗なふたりのレディは、航空船で天駆けるワルキューレの眷族なのだ。

名うてのジゴロの目に映る美しい形象は、たまさか地上に降りた戦乙女の仮初の姿にすぎない。

下手に手を出そうものなら今夜を限りに、明日からは地獄で鬼娘の尻を追い回す羽目になったことだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?