本質までを身軽に歩く
海と山、どちらが好きか。
世の中的には、どちらかというと「海」と答える人が多いのだという統計データ的な何かを、いつだったか、どこかで見たおぼろげな記憶がある。
私も生まれ故郷が海辺の街だったこともあり、迷わずに「海」だと答える派閥に所属して長かったものだが、流れ流れて数年前より山の麓で生活を営んでいることもあり、山ならではの良さというものを図らずも知ってしまったがゆえに、今改めて同じ問いを問われたとするならば、「どちらとも言えない」と回答すること請け合いである。
「UL」思想
そこに良い山があれば、人は登るものだ。
ここ1年とちょっと山歩きというものを嗜んでいるが、山のことを掘り下げていくと、これまでに知る由もなかった山に付随する世界が一気に広がっていく。道具の種類や選び方、地図読み、植物、動物、地学、山ファッション、山料理・・・
ジャンルにしても通常のハイキング/トレッキングから、ピークハント、縦走登山、沢登り、雪山登山、クライミング、トレイルランニングなど、多岐にディープな世界が展開されており、一生をそれに費やせてしまえる勢いを感じた私は、それぞれの世界の門前をうろつく程度に没入を止めている。
東山・西山・北山と三方を1000m以下の山で囲まれたここ京都での山歩きは、"低山ハイキング/トレッキング"などというカテゴリにあたり、「京都一周トレイル」と呼ばれる整備されたコースや地図にない古道、ローカルトレイルなど、様々なバリエーションのルートが存在している。三方を囲まれているがゆえに、街中にいても場所によっては風景に山の緑が含まれたりするのだが、山歩きを始めてからは、"日常風景にあるただの緑"程度にしか思っていなかったその辺の山々が、"無限に広がる遊び場"に見えるようになってしまった。
そんな身近な遊び場を軽快に歩くスタイルの1つとして、「ウルトラライトハイキング(以下UL)」という概念がある。
「UL」とは、ざっくり言うと、"荷物の無駄をなくす、軽量設計のギア(道具)を駆使するなどして身軽な装備で山を軽快に歩き、より自然との一体感を楽しもうではないか、といったハイキングスタイル"のことだ。(と私は理解している)
デザインする身軽さ
この「UL」の思想・哲学は、山の中のみならず日々の生活や仕事の中で、考え方や判断材料の一つとして少なからず影響を受けているように思う。単純に普段の手荷物や服装の軽量化を意識し始めたことも一つだが、"ツールをシンプルにする"といった点で「UL」概念を知った影響が出ているのかもしれない。もう少し正確に言えば、少し前から自身の中でシンプルなモノ/コトを好む傾向はあったのだが、「UL」を知り、それが確信的になってきたという感覚だ。
例えば、相応に規模感があり複雑なプロジェクトの「WBS(Work Breakdown Structure)」を引く際などは、最初は紙とシャープペンシル、消しゴムのみで始める。しっかりと実際の動きをシミュレーションしながら進行の流れを描くには、身体的な動作を伴いながら体で考え、直感的に何度もやり直しができるアナログスタイルの方が、結果的に作業上の障壁が少なく、最短距離で本質解まで追い込むことができるのではないかと考えているからだ。おまけに目も疲れないし、電源すら不要である。
音の機材にしても本当にキリがない世界で、これまでも予算の範囲で自分なりに色々と試行してきたのだが、例え他のツールを使えばわりと簡単にできてしまうようなことでも、1つのメインツールが提供する標準機能の中で工夫して実現させた方が、最近では自分の中で正義にすら思えてきている。
WBSの話と同様、ツールのスタディにかかる時間やツール間の往復、選択肢が増えることでの迷いなどを削減できるため、本質解まで最短距離で追い込むことができるのではないかということに加え、同様のアウトプットを作り出すにしても少し違ったアプローチ・工程が踏まれることで、隠し味的な独創性が宿るのではないかと考えるからだ。
かのレイ・ハラカミ氏も、ほぼ「SC-88Pro」という機材のみを使い込んで、他にない特有の鮮やかな音像を作りだしていたというエピソードがあるが、どこかしら近いものを感じる。
余計なものがない、他を考えなくてよい、あるもので工夫する、といった状況は、一定の不自由さはあるものの、そのぶん他の感覚が研ぎ澄まされてくるのではなかろうか。
ランチタイムのマエストロ
その昔飲食店でアルバイトをしていた頃、ランチタイムに現れた初老の紳士のことをふと思い出した。
どちらかというと禿頭の部類でメガネをかけたその紳士は、当時650円の和定食をオーダーした後、おもむろに小さなカバンから1冊の薄い書物を取り出し、物語を読み込むように眺めながら食事が運ばれてくるのを待っていた。「お待たせしました」と私が和定食を配膳したのと、その薄い書物の中身が少し目に入ったのはほとんど同時だった。無意識に活字と決めつけていたその中身とは、"楽譜"だったのである。
音の道を志していた身としてとても気になってしまった私は思わず、「それはなんですか?」と紳士に尋ねた。すると彼はこう教えてくれた。
「これはオーケストラのスコア(総譜)でね。ぼくぐらいになってくると、これを読めば頭の中で音が鳴ってくるんだよ。」
私の中で一方的な敬意のような感情が沸き起こり、「マエストロ」という言葉が瞬時に思い浮かんでいた。
なぜこんなことを思い出したのか?
恐らく、このエピソードには"身軽さ"の極地的なエッセンスが含まれているからだと自己分析する。
察するに、この紳士がスコアを眺めるだけで音楽視聴体験と同様にオーケストレーションを脳内再生できるようになるに至るまでには、きっと、かなりの音楽学習を積んできたうえに、年齢なりの人生における様々な経験、トライアンドエラーを重ねてきたに違いない。その結果として、ただ薄いスコアを持ち歩くだけで良いのだという徹底的に無駄が削ぎ落とされた、まさに「UL」なスタイルに辿りついたのではなかろうか。
人が"豊かさを感じる"ということについては、外的・物理的な豊かさと、内的・精神的な豊かさの掛け算的な要素があると思うが、それに近い感覚というか、内的世界の知識や技術、経験などが充実することで、外的世界で用いるツールは極めてシンプルなもので事足りてしまうのかもしれない。
あれからもう、20年近く経つだろうか。
私はまだ、色々な意味であのマエストロの域には到達出来ていない。
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