【東海林 隼介】の25年間の軌跡
こんにちは!株式会社Leotoria代表取締役社長の東海林 隼介です。
今回は、僕の『過去〜現在〜未来』に沿って書き記します。
6章に分けて簡単にお伝えするので、少しでも「東海林 隼介」がどんなやつか理解していただけると幸いです!!!
①恥ずかしがり屋な幼少期
「トウカイリン」という珍しい苗字で産まれ、名乗ることや名前呼ばれることさえも恥ずかしかった。
そんな僕は、山形県に生まれ、神奈川県で育ちました。
父、母、4つ上の姉の4人家族で愛情たっぷり育ていただきました。
その愛情に甘えて、基本は母親がいないと何もできなかったと母から聞いています。そして超絶好き嫌いが激しい。
肉は噛みきれずに食べれない。マヨネーズと納豆は食べれない。トマトは、トマトソースは食べれるが、固体のものは食べれない。ブロッコリーは食べれるが、カリフラワーは食べれらない。
大好物は、海苔を醤油に浸して食べるという超絶に身体に悪い食べ物ばかり食べていました。笑
幼稚園に通い、よく担任の先生を「お母さん」と呼んで甘えるという可愛い園児でした。
そんな中、あるきっかけで「サッカー」に出会い、没頭する日々を送りました。
②サッカーと共に成長した学生時代(小学、中学、高校、大学)
そのきっかけは、近所に住んでいた友達に誘われてサッカーを習い始めました。
最初は、友達についていき、ただ球を蹴るだけ。そんな幼稚園児で積極性のかけらもありませんでした。
そんな僕にサッカーに没頭するきっかけに出会います。「日韓W杯2002」です。
「こんなかっこよくサッカーがしたい」という想いが芽生えてサッカーに熱中します。
地元の小学校のサッカーチームに入り、朝から夜までボールを蹴り、小学校までボールをドリブルをして登校し、休み時間もサッカーをし、暇があれば、常にボールを蹴っているサッカーバカでした。
時間のほとんどをサッカーに費やした結果、
4年生の時に6年生に交ってサッカーをやらせていただいたり、本当にたくさんの経験させていただきました。
そして、小学校5年生の時に、市の選抜に選出、県の選抜にも入り、そこからレベル高い環境に身をおき、サッカーに打ち込みました。
そして、最初の挫折を経験します。
中学校の進路が決まらない。ことごとくJリーグの下部組織から「NO」を食らいます。自信をなくしかけていた時に、1つのチームから声をかけていただきました。
そのチームは、「町田JFC」という街クラブで強豪でした。
https://www.machidajfc.org/
育成に強いクラブでサッカーでの3年間、基礎を徹底的に学び、身につけました。
キャプテンにもなり、高校の進路は本当にどこでもいける状態になりました!
強豪高校、Jリーグユースチームからほとんどのチームからオファーをいただき、進路を決めました。
そのチームは、「桐光FC」いわゆる桐光学園高等学校に進学決めました。
全国高校サッカー選手権の常連校で中村俊輔選手の母校でもあり、プロになるには、もってこいの高校だと感じ、進学しました。
目を輝かせていた僕を待っていたのは、まさに地獄でした!!!!笑
先輩がめちゃめちゃ怖い!!!笑
中学生の時に少しだけ悪そうな先輩とも関わりがあったから余裕かと思いましたが、比べものにならない。。。笑
そして、桐光学園名物「夏合宿の4部練習」
下記がスケジュールです。(練習はフィジカルトレーニングです)
5:00 出走
7:00 朝ご飯
9:30 午前練習
12:00 昼ごはん
14:30 午後練習
18:00 夜ご飯
21:00 紅白戦
こんなスケジュールを2週間やりました。笑
新しいことの連続でメンタルが落ち着くことなく1年生が終わりました。
しかし、この高校生活でメンタルは鍛えられました。
2年生は、監督が急に変わり、困惑した日々を過ごし、死ぬ程走らされることに、、、笑
走らされすぎて、みんなで練習をボイコットしたり、、、した。笑
全国大会を経験したり、たくさんの経験をしました。
そして3年生。
死ぬほど、怪我をしました。両足の太腿の肉離れ、左肩の脱臼、肺が破れ、重度の脱水症状で倒れたり、散々な1年を過ごし、全国大会にも出れず、悔しいサッカー生活を送り、大学に進学することになりました。
大学は、「日本大学」に決めました。
https://www.nu-soccer.com/
なぜ日本大学にしたのか、、、それはのちに起業をするきっかけになる「有田 和明さん」がいたからです。
そんな大学では、自主制が強く、うまく自分をコントロールすることができず、サッカーをおろそかにする期間もありました。
それでも、3年生の時には、試合にださせていただけるようになり、サッカーにまた熱量がはいってきたタイミングで就職活動が始まりました。
18年間サッカーを継続しているサッカーで飯を食っていくんだな。と思っていたが、そんなに現実は甘くない。
※実は、高校卒業後プロからオファーをいただいていた経験があるが、いかずに大学に進学しています。
ここから就職活動が始まります。
③就職活動とバックパック
3年生になったタイミングで就職活動が始まり、なんとしてでも将来を安定させたい一心でありとあらゆる会社説明会にいきました。
そして、就活の相談相手は大学の先輩たち。口を揃えていうのが、
「今のうちに遊んでおけ」「うちの会社はやめておけ」など、社会人がまるで怖くてつまらないものだと言わんばかり。
その当時の社会人のイメージは、『闇』『漆黒』でした。
そんなイメージを持ちながらも、就活をして専門商社に就職をなんとなく決めて終えました。
そこから、闇に向かって突き進んでいく中でずっと未来を明るく語る先輩が1人いました。
それが、今のパートナー会社の社長でもあり、11年目の親友・戦友の有田 和明社長です!!!
https://note.com/kazuari
有田社長は、ずっと「仲間と仕事したら面白くない?」って会うたびに子犬のように伝えてくれました。
そこで、有田社長もバックパックをして視野が広くなったと話していたのを思い出し、僕も18年間継続したサッカーを引退してからバックパックにいくこと決めました。
タイ・カンボジア・ラオスを1カ月かけて回りました。
素直な感想!!!
「日本めっっっっっちゃ豊かやん!!!」
って感じました!!!
帰国後すぐに「なにかにチャレンジしないといけない」と想い、さまざまな分野で成果を作っている方々に会いました。
そして、ある経営者の方にお会いします。
④起業のきっかけ
さまざまな方にお会いしている中でたくさんの助言をいただいたり、時には、怖い経験もしたりしましたが、これといってなりたい像の人がいない。。。
そこで有田社長に連絡をして「経営者の繋がりある?」と聞いてかなりの成果を作っている社長の方を紹介していただきました。
たくさんの経営者の方にお会いしてきましたが、その経営者の方は、
「仲間と共に勝っていく人生は最高に面白いよ。僕は、全ての人を勝利に導くのが仕事なんだ」とめちゃめちゃ生き方がかっこいい!!!
さらに、僕と全く同じ十字架を背負いながら、成果を出しており、率直にききました。
東「こんな状態のぼくにでも成功できますか?」
経営者「同じ状況でも、僕はチャレンジして成果をだしてきた。だから君もいけるよ。」
東「チャレンジさせてください!!!」
こんなやりとりで経営者を志すことに!!!!
※背負った十字架を話はまた別にお話致します。僕の本当のやる理由なので。お楽しみしてください。
僕は本当に人に恵まれている。
こんな機会を作ってくれ、
そして「一緒に成功しよう」と心から勇気を与えてくれた有田社長には感謝でいっぱいです!!!
⑤現在の【東海林 隼介】
現在は、株式会社Leotoriaを創業して代表として事業展開をしています。事業は、「営業代行事業」「キッチンカー」や個人で「店舗立ち上げの支援」をしています!
ありがたいことにたくさんの仲間に恵まれ、たくさんの事業の携わらせていただき、1人の経営者として成長して来られました。
⑥今後の【東海林 隼介】
過去の経験や今している経験で今の自分が出来上がりました。
一言でいうと「チャレンジしてよかった」です。
そして、僕はチャレンジと圧倒的な努力で全ての人に可能性を証かす存在になると決めました。
本当にただの凡人がチャレンジと努力で日本を代表する経営者になる。
まだまだ、さまざまな状況で理想の状態があるのにも関わらず、チャレンジできていない人、さまざまな諸条件を抱えてチャレンジができていない人、一歩踏み出すのが怖い人、人生は自由だと知らない人、志すことがこんなにも面白いことを知らない人、全ての人の可能性を僕の生き方で証かし、これから日本をチャレンジに溢れる国にして、物資だけが豊かな国から物心が豊かな国・社会をつくるために毎日ハードワークします!!!
至らない部分が多く、わかりにくい表現などあったかと思いますが、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
僕の夢の1つでもある「本を書き、父親に感謝を伝える」ことを実現するために発信して文章力をつけます。
さぁ今日も志事をしよう!!!!