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「自分」の欠如と刺激に求める自分探し(自己紹介)

誰かが言った人生は人生の意味を探す旅であると

どこかで、人生の目的はその目的を探すことだ。という話を聞いた。
めちゃくちゃそれっぽい。場合によっては腑に落ちる。けど、なにかもやもやする。

多分、僕に取っての答えはこれじゃないんだと思う。なぜなら、「もやもやする」から。

僕の人生にはこの現象が多発する。ナンカコレジャナイ感。この感覚にはもはや幼なじみよりも親近感がある。

僕は大学2年生の時に加入した学生団体で、このモヤモヤの正体を知ることになる。
「僕は自分のことを知らない」
自分が何に興味があって、価値観は何で、何が嫌いかわからないのだ。
だから、何となく何でも興味があって、何でも好きで何でも嫌いだ。
ただ、直感だけは、「これはやめとけ」「これはいいぞ」と語りかけてくる。

なんでこうなってしまったかと考えると、思い当たる節がいくつかある。
・幼い頃に周りに合わせすぎた
・周りの大人が言っていることを真理だと思い込んでいた
そりゃあ、小さい頃の僕にも考えだったり、自我のようなものがありましたよ。でも自分より何倍も生きている人は正しい気がしていたし、友達には嫌われたくないのでとりあえず合わせていた。
それが苦痛じゃなかったし、合わせられた時に「これで合ってるんだ!」という気持ちは何にも変えがたかった。

ある意味、中学生からの僕のテーマは「固定観念からの脱却」といってもいい。
正しいとか正しくないということを自分の価値基準で判断しようとする道のりである。

他人は自分を写す鏡とはよく言ったもので

固定化された価値観からの脱却という点において僕の大学生活は大分機能した。

まず、ニュージーランドとカナダ、フィリピンへの渡航は譲れない。この体験は自分への認識を大きく変えるものだった。東京の北の方の田舎である東村山に生まれ画一的な社会で生きてきた自分にとって、全てが新しい世界だった。

大学2年生で加入した国際NPO法人の学生支部であるAIESECにおいては、考え方の多様性という意味で多大な影響を受けた。確固たる自我を持つ者、自我を持たんとする者、他人への貢献が自分の至福となる者。全てが羨ましかった。自分を持つことの素晴らしさを学んだ。

こうして、ずいぶんと多様性に包まれたおかげで自分は変わってきたなぁと思う。
ある面において自分は開けてきた。自分というものを広げよう、広げようとする力が湧いてきたのである。
ある面において自分は社会倫理の枠に収まらなくなってきた。(日本でダメなことでも他のとこいったら普通だったりするしさ)何事も自分で判断することが吉だと思う。

肩でも腰でもなくて外

今後は、一度就職したインド系のIT企業を辞め、オランダにあるtwente大学でcomputer scienceを学びに行く。

言ってしまえば、これも自分探しの旅の一環である。

なんども自分の中にある自分を探してみた。全身隈無く探しても自分は見つからなかった。

刺激を求めて外に出てみて、刺激に対する自分の反応を見て自分を始めて理解するのだ。

僕は自分のことが1番わからない。

次の旅先でどんな自分が見つかるか楽しみである。
あれっ?人生の目的はその目的を見つけることだ。みたいな感じの生き方になってない?

なんか嫌だな〜

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