「学校が嫌い」だから教員として仕事している
前の日曜日、神戸で開催された多様な教育の博覧会「エデュコレ」に、ブース出展側として参加してきました。
終了後の懇親会で「エデュコレ」の大きな企画のひとつであるトークセッションに登壇された、世田谷区立桜丘中学校の西郷先生とお話する機会に恵まれました。そこで僕が中学3年間不登校だったのにいま教員として働いていることが話題になりました。
「どうして学校の先生になろうと思ったの?」
自然な疑問だと思います。もう自分の不登校の時代なんて10年以上も前ですが、29歳になった今でも学校という場所はどうにも苦手です。好きか嫌いかと言われたらもちろん「嫌い」です。なくなればいいのに、とは思わないけど、小学校の6年間よく不登校にならずに通ってたなと思います。まあそれは「学校を休む」という選択肢を知らなかっただけなんだけど。
じゃあ、なんで学校が嫌いな僕がいま教員として働いているのか。
簡単です。学校が嫌いだからです。
学校が嫌いだから、僕は学校で働いているのです。
学校は嫌いですが、教育という分野はたいへんに興味があります。じゃなかったら教員の仕事は非常勤契約にしていないし、教育系のNPOでスタッフもしていないはずです。もちろん子どもたちと関わることも楽しいし大好きな時間です。
いま働いている通信制高校という場所は、不登校を経験したり、違う学校から転入してきたり、境遇は人それぞれだけど共通しているのは「学校に不信感を持っている」子が多い環境です。僕自身がまさにそういう子どもだったということもあるのだけど、僕はそういう生徒たちの味方でありたいと思っています。
僕は「先生」と呼ばれる立場ですが自分のことをあまり先生だと思っていません。敬語じゃなくてもいいし、生徒によってはあだ名で呼んでくることもあります。これをヨシとしない先生もおられると思います。実際「それはあかんやろ」と言われたこともあります。
しかし、上下関係を強いたり、大目に見れるようなレベルの粗相でも声を荒げるような態度を、学校に不信感を持つ子どもが受け入れるわけがありません。誰よりも何よりもそれは僕が一番よくわかってることだ、という強い自信もあります。ただでさえ学校という場所や環境にに不信感を持ちながらこの学校へやってきたのに、ここも結局先生が威張ってるのかよ、と思われたらもう最後です。学校から足が遠のけば、比喩抜きでその子の人生を大きく左右してしまうことにつながります。
だから、僕は学校が嫌いだけど、学校で働いているのです。
学校という場所に不信感、閉塞感を持つ子どもへ「こんな先生もいるんだぞ」という背中を見せるために働いています。多様な教育を、と叫ばれるなら、何も学校が大好き!っていう先生ばかりじゃなくていいはずです。だったら、自分で言うのもおこがましいですが、「学校が嫌いだ」と思いながら働く先生も必要なんじゃないか、と思いながら働いています。
別に学校嫌いだから学校を変えてやる、なんて思いは微塵にもありません。ただあるのは、目の前にいる生徒が自分と関わることで前を向けるようになったり、せめてなんかしんどいことがあってもその時間だけは忘れられたらいいなあ、ということ。やっぱりそこにも社会で生きるしんどさとか、学校が嫌いという根底の思いが、生徒と共通しているような気もしています。
あえて「学校」の場で、ひとりの教員としてではなく、ひとりの「大人」として、なんだか楽しそうな姿を学校で見せることが、学校が嫌いだけど学校で働いている僕の使命なのかなあ、と思います。