あれ、今なんのために自粛してるんだっけ
たまにはこういうのもいいか、と、近所の店にテイクアウトのトンカツ弁当を注文した。30分後に出来上がるということで、ついでに買い物を済ませたらちょうどいい時間だなあと思い支度して家を出る。
公園を通りがかると、入り口で教育委員会名義の「ボール遊び禁止」という張り紙が出迎えていた。
あれ?こんなの数日前あったっけ?
たしかにこの公園キャッチボールとかみんなよくやってるけど、ボールが子どもに当たってケガでもしたのだろうか?それとも「ステイホーム」の一環でこれ貼ってるのか、だとしたらそれって・・・などと思いながら、公園を通り過ぎる。ちなみにそれでも普通にキャッチボールとかバドミントンやってる人たちが多くて、張り紙の意味のなさがすごかった。
公民館には「今は我慢しよう」なんて張り紙もされている。でも道端では普通に素振りしてる少年もいるし、別の公園にはひとつのゲーム機に子どもたちが群がっている。
透明なフィルムが張り巡らされ、いちいちレシートもお釣りのトレイに乗って出てくる中で買い物を済ませ、トンカツ弁当を取りに店へ行く。途中の焼肉屋もラーメン屋も「新型コロナウイルスの感染拡大防止のために5月6日まで休業します」の張り紙でドアを閉めている。トンカツ弁当を受け取った店はそこそこ大きなレストランなのだが、見事に客が誰も座っていなかった。
トンカツ弁当を受け取って家に帰る。単純に「ボール遊び禁止」のポスターが目に入るのがとても息苦しく感じたので、その公園をなるべく避けるルートで戻ってきた。パソコンを開けば、「GWはみんな家から出ないで!」と芸能人がワイドショーで発言したというニュースが躍っている。どっかの県では「来たことを後悔すればいい」みたいな発言をした知事がいてえらく話題になっている。
なんか、思うのだ。
いまみんな、なんのために自粛してるんだっけ?
早い話が「手段の目的化」を感じざるを得ない。「自粛」ってそもそも、新型コロナウイルスの感染拡大防止だとか、医療崩壊を防ぐために手洗いうがいだとかそういう一環としての「自粛」だったはずなのに、今日トンカツ弁当を取りに行くだけでここまでの「自粛」があり、ネットでは今日も「ステイホーム」だの「外出てんじゃねえよ」みたいな発言がバンバン飛んでくる。
いつから「自粛すること」が目的になったんだろう?
「8割人との接触を減らせ」という。これも本来は「いち手段」だったはずなのに、いつの間にかそれ自体が目的になっている感じがある。ちなみに僕は期せずして8割どころか9割5分くらい接触が減ったので「8割人との接触を減らせ」が無意識のうちに達成できている生活を送っているが、だからといってこの生活を人に強要するつもりはない。というか、アドラー心理学でいう「課題の分離」で考えたらそれは無茶だとすら思っている。
昨日の『サザエさん』で、GWにレジャーへ出かけるという話を放送したら不謹慎だなんだと大炎上したらしい。これとかもう「自粛すること」が目的化している超典型例なんじゃないかと思う。なんかここまで来ると、「本当に必要な用事で外を歩いている」のに、いつも以上に誰かに監視されてるような感覚があって、外を歩くことさえものすごい罪悪感に苛まれる。もっと書けば、「生きるために必要なこと」まで本当に自粛しなきゃいけないの?という恐怖感もある。
「自粛すること」が目的の世界が生きづらくてしょうがない。そんなことを思ったうららかな春の午後だった。