「今の状況を忘れられる」読書をしよう
もう何度も書いているが、僕の日課は本を読むことである。
1日1時間を目標に、時間が取れなければ最低30分、必ず「本を開く」時間をとるようになって、かれこれ3年近くが経つ。もともと片道1時間近くある電車通勤の時間でなにかできないか、と思って始めた読書が、ここまで自分の生活に大きく根付くとは思ってもいなかった。いまや歯を磨くのと同じくらい自然に本(またはKindle)を開く。
しかし実はいつでもどこでも、集中して本を開いているかと言えば答えはまちがいなく「NO」だ。めちゃくちゃ集中して読める日もあれば、もうぜんぜん頭に入ってこない日もある。「文字を目で追うだけ」の作業になってるな、と感じたらスパッと読書を止める日もある。そういうときはだいたい「心ここにあらず」という状態だったり、いろんな情報や状況に大きく心をかき乱されていることが多い。
で、今がまさにそんな状態だったりする。理由はその時々によるが、今の状態はまちがいなく「自粛疲れ」によるものが大きい。
毎日読んでいるから「読みたいと思った本を読む」を手に取るのは当然として、そこにはその時々の基準が存在する。たとえばこの間は「今欲しい情報が載ってそうな本」として『99.9%は仮説』(光文社新書)という本を読んだ。きちんと読み込んでインプットできれば、いまの新型コロナウイルスに関する情報をもっと多角的な目線で見れるんじゃないか、と思ったが、本自体はおもしろかったもののそこまでの境地には至れなかった。そういう意味で、この本はまた読まなければならない。
そして2日前、今度は『99%の人がしていないたった1%のメンタルのコツ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)という本をKindleでダウンロードした。これはもうタイトルの通りで、この自粛ムードでメンタルが崩壊気味だったのでなにかヒントはないか、と思い読むことにした。
実際すごくためになることが多く書いてあった。「怒るか怒らないかは、その人が選択した結果だから、怒られる側はまったく罪の意識を持つ必要はない」という一節には、これでもか!というほど深く頷いた。同じシリーズで出ている『仕事のコツ』のほうも読まなきゃなー、と思ったのですが、でも同時にどうしてもきちんとインプットされたような気がしない。
そこでもう1冊、『ひらあやまり』(角川文庫)という本も同時に読み進めることにした。「水曜どうでしょう」の嬉野雅道ディレクターが書いたエッセイ集である。僕は嬉野先生の朴訥とした文章が大好きなので、なにか気分転換になるかもしれないと思ったからだ。
実は何冊かの本を同時に読みすすめる「併読」ということを、僕はあまりやらない。あまりにも長いか、買ったばかりでよっぽど読みたい本が出てきたら、カラオケの割り込み予約のように読んでいる途中でも新しく読み始めることは月に1度くらいはある。しかし基本的に1冊読み終えたら次の本を読むスタイルを貫いている。
で結果、どうなったかと言えば、『ひらあやまり』のほうはここ数週間で一番と言っていいほど集中して読み進められた。さっきも書いたが『ひらあやまり』はエッセイ集である。本当に気分転換にもってこいと言っていい。
『ひらあやまり』を閉じたあと、ふと気がついた。
いま、このメンタルの状態でで求められている読書は「今の状況を忘れられる」読書なのではないか、と。
ひとくちに「読書」と言っても、その目的は様々ある。『99.9%は仮説』『99%の人がしていないたった1%のメンタルのコツ』を読んだのは「新たな情報を得る」ための読書だった。それに比べ、『ひらあやまり』を読むのは実は3回目。しかも先述したように僕は嬉野先生の文章が大好きで、今回『ひらあやまり』を手にとったのはまちがいなく「今のたいへんな状況」を1秒でも忘れられるような、そんな気がしたからだった。
そして実際『ひらあやまり』は「読み耽る」という表現が当てはまるほど集中して読んだ。「今のたいへんな状況」を1秒でも忘れられるような読書、という目的は見事に達成されている。つまり、いまの僕には、「新たなインプットを得る」ことより「好きな著者の本(文章)を繰り返し読む」ほうが、読書を通じた心の平安を得ることが必要だったのだ。
・・・だから、今夜はこのあと、僕は同じ嬉野先生のエッセイ集の続編である『ぬかよろこび』を読み返そう、と、心に決めている。『ぬかよろこび』が終わったら、藤村Dとの共著『悩むだけ損!』シリーズを読むのもいいかもしれない。それか、それこそ『腹を割って話した』シリーズを読み返してもいいな。
そんなことを考えながら日々を過ごすことが、あまりにも不安定な情勢の今を生きることなのかな、と思う。