その場所へ行ってはいけない
人間には生まれ持った好奇心がある。
ナゾナゾを出されれば答えを知りたくなるし、新しい勉強を基本的に楽しむことができる。
知らないことを知るのは心地よい作業であり、学びは人生の本質であるとも言える。
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先日、久しぶりに、ディズニーランドへと行った。
妻と二人で、だ。
二人きりで行くのは初めてだったが、まだ僕らが付き合う前、会社のメンバー4人で行ったことがある。
いつ訪れても、夢の国は、僕たちをワクワクさせてくれる。
そういう特別な場所だ。
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園内を歩きながら、しかし、僕は思ったことを口にした。
「なんか狭くなったような気がするよね」
「ね、そうだね」
そういう会話だった。
確かに楽しいけれど、そこはかつて訪れたディズニーランドよりも、ずっとずっと小さくなっているような気がした。
それは不思議だったし、とても寂しい事態だった。
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例えば、僕はよく旅をする。
知らない土地を歩くのは、無条件にワクワクする。
どこもかしこも初めて見る景色で、脳が喜んでいると感じる。
でも大抵の場合、行きたいと思っていた全ての場所へは、行くことはできない。
時間切れになる。
だから全部は訪れず、諦めて、家に帰ることになる。
「また今度、来よう」
そう心に誓って。
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そういう旅を繰り返して、気がついたことがある。
訪れなかった場所は、僕にとって、より強いイメージを植え付ける、ということ。
この目で見た場所と同じくらい、見なかった場所も、強い印象を残す。
場合によっては、その引力はより強大になったりもする。
訪れないのは、悪いことではない。
むしろ、訪れないことは、僕らの想像力を掻き立て、次への期待を膨らませる余韻となる。
そしてそれは、生きる希望となる。
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人生観が変わるような海外旅行。
笑ってしまうくらい広すぎるスイートルーム。
思わず背筋が伸びてしまう高級フレンチ。
大人になっていくにつれ、そういう「やってみたかったこと」に少しずつチャレンジできるようになった。
まとまったお金さえ出せば、大抵の「やってみたい」は経験できるのだ。
でも、そういう「やってみたかった初めて」を繰り返していくと、やがて好奇心のフロンティアが枯渇していく。
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「すべて満たされたら、つまらないじゃない?」
ある映画でのセリフだ。
その女性は、外でデザートを食べようとしなかった。
子供ができてからも、無邪気な笑顔でいたままだった。
今の僕は、その言葉に深く、共感する。
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何もかもが手に入る世界というのは、何も手に入らない世界と同様に、味気ないものだ。
そして、衣食住、さらにエンターテインメントまでもが満たされつつある現代は、逆説的に、生きる希望を失いかねない世界だと言える。
「何のために生まれてきたんだっけ!?」
その問いかけは本質的で、だからこそ、ラディカルな意味合いを帯びてくる。
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小さい頃、家族でディズニーランドへと行った時、とてつもない広さを感じた。
そこは子供にとって、心踊るフロンティアで溢れていた。
乗ってみたい乗り物がいくつもあったし、地図の端から端まで、満喫したいと思った。
そこは本当に、広い場所だった。
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つまり、狭くなった訳ではないのだ。
単純に、自分の背丈が大きくなっただけなのだ。
全体像を、夢の国を作っている人々を、知ってしまっただけなのだ。
そしてそれは、換言すれば、大人になったということだ。
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未知を、未知のままで放置しておくというのは、本能とは逆行する作業である。
しかしそれによって、生きる喜びは増大するのだと思う。
全てへと訪れる必要はないし、全てを知る必要もない。
何も知らなかった子供の頃と同じように、無邪気に家へと帰ればいい。
知らないことがある喜びを、噛み締めるために。
その場所へ行ってはいけないのだ。