「太陽の塔」に会いに行く
他の人にとって取るに足らないことであっても、誰かにとっては「心の支え」となることがある。僕にとっては、万博記念公園にある「太陽の塔」がそれにあたる。
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大学2年生の夏に、何を思ったか東大受験を決意した。すでに大学生活を送っていた僕にとって、頂上に向かって再びチャレンジするというのは突拍子もないアイデアであったが、なぜだかその発想は魅力的に映った。
ワクワクするなら、やってみればいい。
自分の直感に従い、半年間がんばってみようと決めた。
独学での再受験だったので、自宅の自分の部屋にずっと引きこもって勉強していた。基本的にはすごく楽しかったが、たまにやり場のない不安に襲われた。夜に眠れなくなることもあった。
そういうとき、僕は、いつもなぜか近くにあった森見登美彦の「太陽の塔」を読んでいた。彼の小説家デビュー作だ。
彼はむしろ、例えば夜は「短し歩けよ乙女」が有名である。あるいは、京都に暮らす狸の一族を描いた「有頂天家族」は僕も大好きな小説だ。
それでも、僕は「太陽の塔」をなぜか(何回も繰り返し)読み続けていた。
何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。
なぜなら、私が間違っているはずがないからだ。
そんな冒頭から始まる。
主人公は京都大学の学生で、少しだけ頭でっかちだ。そして、自分を振った一人の女性のことを未練がましく引きずっていた。
元恋人に心が惹かれてしまう理由を明らかにするため、「研究」という名目で彼女を追いかける。
決してストーキングではない(と主人公は語っている)。恋愛を主題としながら人間の本質に迫る、リアリティ溢れる傑作だ。
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本のタイトルにもなっているだけあり、物語の中で、「太陽の塔」は重要な役割を担う。
そのメタファーは、読者に得も言われぬ余韻を残す。
どうせならもっと読み応えのある評論を読んだほうが受験のためにもなるはずだったが、僕はその小説全体が織りなす世界観に心酔していた。
行き詰まっては、それを読み、自分の中で解釈を深めていった。
そうこうしている間に、大学受験が終わる頃には、10回以上も読んでいたのだった。
同時に、「太陽の塔」自体への憧憬の念が深まっていった。
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そう、「太陽の塔」だ。
自分の目で見たことのないその塔は、僕の心にずっしりと居座ることとなった。数年間の間、ずっと。
社会人になった僕は、いよいよ「太陽の塔」に会いに行くことにした。僕のことを心で支える大きな物体は、実際はどんな奴なんだ? それをこの目で確かめたかった。
万博記念公園はけっこう辺鄙なところにある。大阪府吹田市に位置し、大阪モノレールという電車に乗っていく。
モノレールに乗ってゆられていると、窓から奴は見えてきた。自然の中に、ひときわ目を引く白い物体が出現するのだ。
異質だ。窓越しに、奴をじっと見つめた。
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目の前で見る「太陽の塔」は、とても変な奴だった。両腕を伸ばし、絶妙なバランス感覚で立っていた。
表の顔しか知らなかったが、実は裏にも顔があった。それはまるで隠し持った二面性を表現しているようだった。
半日かけて、万博記念公園をぶらぶらと散歩した。公園はとても広く、自然に溢れていた。
そうして夕方、帰り際に見た「太陽の塔」は、目を光らせていて不気味だった。そしていつまでも一人で佇むその姿に少しだけ同情し、心のなかで声をかけた。
「お前は寂しくないのか?」
答えは、もちろんなかった。
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岡本太郎は何を考えていたのだろう? なぜあんなにヘンテコリンな塔を作ったのだろう?
「太陽の塔」は、僕を惹きつけてやまない。それは、強烈なメタファーだからだ。何のメタファーなのかも分からないほど、抽象的すぎて、だからこそ見るものの想像力を掻き立てる。
「太陽の塔」は常軌を逸している。人によって受け取り方は違うのだろう。
人間の一つの姿なのか。平和の形なのか。邪悪な欲望の化身か。あるいは。
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僕にとっては、それは「強い孤独」だ。
決してネガティブなものではない。強い孤独は、人生を前進させてくれる。
誰かにとっての太陽の塔を、僕も創りたいと思った。皆が、孤独を愛せるように。