彼女と47都道府県を巡る旅を始めた
遠くへ行きたいとずっと思っていた。ここではない、どこか「遠く」へ。それは日本のどこかにあるのかもしれないし、地球の果てにまで行かないとないのかもしれない。とにかく、遠くへ行きたかった。
しかし、「遠くへ行く」というのは、実際にはとても難しい。遠くを目指して、やっと辿り着いたと思っても、新しい「近く」が誕生するだけである。目指していた場所は、そこに到達した時点で、もはや「遠く」ではなくなってしまう。
今とは違う場所を求めていても、それはなかなか手に入れることはできない。それは言うなれば砂漠に存在する蜃気楼のようなものであり、一種の幻なのかもしれない、と思う。
それでも僕は、人生において、遠くへ行くというのを一つの目標にしている。それは一見簡単なように見えて、永遠に到達することのない目標なのかもしれない。だけど僕にとっては、とても重要なテーマなのである。
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そんな僕にとって「乗り物」は一つのエポックメイキングであった。例えば、自転車。自転車に乗れるようになってからは、確実に世界が広がった。
小学生の時には、友達と一緒に藤沢から箱根まで旅をした記憶がある。たしか遠すぎてたどり着けず、途中で折り返したのだったが……。それでも、歩いて行くよりもはるかに遠くまで行くことができるのを僕は確認した。
自転車以上に変化をもたらしたのが、車だ。そう、車。車は、僕の体をはるかに遠くまで運んでくれた。
小さい頃、それを運転してくれる両親たちは、とてつもなく大きな存在に思えた。あまりにも偉大であり、憧憬の念すら抱いていた。しかし、いざ自分がハンドルを握るようになると、それは少し思い違いだったと知る。
シンプルに、アクセルを踏み、ハンドルをくるくる回せば、そいつは好きなように動いてしまうのだ。だから大学生になると、車に乗って、本当にいろいろなところへ行った。丘の上の夜景を見に行ったり、みなとみらいへ行ったり、伊豆へ行ったり。
自転車では決して行かなかったような場所へ、つまりは、より遠くへ、行けるようになった。そして、思った。遠くへ行きたければ、何よりもまず「乗り物」が必要なのだ、と。
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「生憎の雨だね……」川崎駅で彼女をピックアップした僕は、そう呟いた。
7月。どんやりとした雨模様は珍しい季節だと思う。なんだか二人の未来を暗示しているような気がして、先が思いやられる。
「大丈夫。きっと晴れるよ」
「いや、天気予報は百パーセントの確率で雨だったよ」
普段は天気予報なんて見ない僕だが、こういう日はやっぱりチェックしてしまう。
「こんなの、すぐに晴れるから〜〜〜」
彼女は、何を根拠に言っているんだろう? でも、その前向きさこそが僕の彼女だった。
いつもポジティブで、物事を前向きに捉えようとする。一方の僕は、最悪の事態を想定しながら物事を考える。悲観的という訳ではなく、心配性で、完璧主義なのだ。
だから、彼女の前向きさに僕は救われている。
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付き合い始めて1ヶ月になる。二人で話しているときに、どちらからともなく「47都道府県を一周したら面白いのではないか」という話題が出た。お互いそのミッションにワクワクしたため、さっそく土日を使って旅に出る計画を立てた。
「静岡はなんか普通だよねぇ。群馬とかは、土日で行くにはちょっとめんどくさいかな…」と呟く彼女に「まずは、千葉に行こう」と提案した。
「房総半島の最南端で、灯台に登って海を眺める。それが楽しそう」
実は僕は、そこへ行ったことがあった。大学のゼミ合宿が、ちょうど千葉の館山だったのだ。お互いに初めての場所へ行ってみたい気持ちもあったが、いかんせん最初の旅行ということもあり、失敗(何が失敗と定義されるのかにもよるが)するのは避けたかった。
館山は、本当に気持ちのいいところだったのだ。
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アクアラインには初めて乗る。川崎と房総半島をつなぐ、一直線の高速道路だ。料金が馬鹿みたいに高いが、海上を車で走るのはとても気持ちがいい。悪天候のなか、テンションの上がる音楽をかけて運転した。
途中で「海ほたる」という有名なサービスエリアに立ち寄った。
「二人で旅行って楽しいね。俺は付き合っている人と行くのは初めてだ」「言われてみれば私も、一回くらいしかないなぁ」
フードコートで朝ごはんを食べながら、そんな会話をした。
「せっかく写真スポットなのに、これじゃ何も撮れないね」
彼女は口を尖らせた。でもどこか嬉しそうだった。
「今回の旅で私は、目標が一つあるねん」
「なに?」
「多肉植物を買うこと」
「そういうお店があるの?」
「いや、探したんだけど。全然見つからないねんな」
「なんだそれ…」
雨は、降り続いている。
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土砂降りの中、古民家のカフェに立ち寄った。彼女があらかじめ調べていて、行きたいと言っていたカフェだ。カフェエドモンズという。
合掌造りで作られた一軒家は広々として、とても趣がある。お店のイチオシであるというコーヒーとバウムクーヘンを楽しみながら、しばしのんびりした。縁側で雨を眺めながらコーヒーをすすっていると、心が落ち着いた。
「それにしてもこんな素敵なところ、よく見つけたね」
「うん!Rettyで探したら出てきたねん」
自分で探しても見つからないんだよなぁ、と僕は思う。
そして、ふと気がつく。自分だけでは見つけられなかった場所。自分だけでは行こうと思わなかった場所。そういう場所に、これから二人でたくさん訪れるのだろう、と。そういう予感がした。
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その後も色々と寄り道をし、ようやく宿に到着した。Airbnbで見つけた、小さいけれど、海の見える素敵なアパートだった。1階がカフェになっていて、それもなんだか嬉しかった。
素敵なワンルームの真ん中に、ちょこんとベッドが置いてあった。彼女はそこの上に座ると、急に黙りこんでしまった。
「どうしたの?」
僕が聞いても、何も答えない。じっと一点を見つめている。そのうち、彼女の目からは涙が流れた。
「ねぇ、どうしたの?」
聞くけれど、やはり答えない。この旅を楽しんでいたのは自分だけだったのかなと思ってしまう。そして悲しくなってしまった。
しかしやがて、彼女は泣き止んだ。泣き止んだ彼女が話し始めた。話すところによると、どうやら昔好きだった人のことを思い出してしまったということだった。
「無理に忘れようとすることないよ」と僕は言う。
「忘れることができなくても、俺は全然気にしないから」
彼女は少し笑顔になった。
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外を見ると、あれほど土砂降りだった雨が嘘のように止んでしまった。
「だから、言ったでしょ?」
彼女の予言通り、本当に晴れたのだ。雲間から夕日が差し込む。僕らは外に出た。宿の前の細い道を抜け、海岸まで歩いて行った。
夕焼けが広がっていた。空の藍色と、夕日の光が、絶妙なコントラストを作っていた。
「人生で見た中で、一番綺麗な空」
彼女の言葉は、決して大げさではなかった。それは息を呑むほど美しい空だった。
フォードが発明した「自動車」は、紛れもなく20世紀最大の発明の一つであった。車は奢侈品から必需品になり、人々の行動スタイルを劇的に変えた。僕らはそれがなかった時代よりも、少しだけ遠くへ行けるようになった。少しだけ、世界が広がった。
そして、時折、「生きてて良かった」と思えるほどの綺麗な瞬間にも出逢えるようになった。
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翌日。空はからっと晴れわたった。
僕らは、房総半島の最南端にある灯台に登った。幾重にも続く螺旋階段を登っていく。頂上にたどり着いた。別に、世界が変わる訳ではない。房総半島の最南端、および水平線まで続く海を一望できるだけだ。
もう一度ここに来ることになるとは思いもしなかったな、と僕は思う。大学生の時、同じようにこの灯台に登って、全く同じ景色を見たのだった。「もう二度と来ることはないだろう」と思っていた場所に、人は思いがけずもう一度訪れることになる。
僕は、停滞しているのだろうか? あの時と違うのは、一緒にいるのがゼミの友人ではなく恋人だ、ということだった。僕は、前進しているのだろうか? 僕は遠くへ来れたのだろうか?
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僕らの隣にいる老夫婦が、広大な海をバックにして、仲良く自撮り写真を撮っていた。それを眺めた彼女が言う。
「年をとっても、あんな風に仲良しでいたいね」
「そうだね」
答えながら、僕は思う。
「さて、多肉植物はどこで買えるんだ?」
・・・
いつの間にか、「多肉植物を買う」ということが、この旅におけるゴールになっていた。しかし買える場所が分からなかったので、宿泊していたAirbnbのオーナーに聞いてみた。
「そういう場所は分からないなぁ。いい感じの雑貨屋さんなら知ってんですけど」
まずは、その雑貨屋さんを目指すことにした。時間はたくさんある。
僕らは、行きに来たのとは逆の道、つまり千葉の東側を北上していった。スピーカーから流れる高橋優の声が心地よい。
この旅ではずっと、車の中を高橋優が流れていたので、僕は彼の歌声を聴くと千葉県を思い出すようになった。そしてほどなくして、「安房暮らしの研究所」に到着した。
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地元の町に根付いた雑貨屋さんは、オリジナリティに満ちていることが多い。この「安房暮らしの研究所」もそうであり、地元でしか買えないような様々な品が置いてあって、興味深かった。
Tシャツやら何やらを購入した。そのついでに、多肉植物について、オーナーさんに聞いてみた。
「ここを北上していくと、そういう植物をたくさん売っているところがあるよ」
「そうなんですか!」
「今日はやってるのか分からんけどなぁ」
「とりあえず行ってみることにします」
僕らはその住所をしっかりと確認し、また車を走らせた。なんだか、わらしべ長者みたいだ。
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グーグルマップで確認するものの、車では入れないような場所にあるため、僕らはちょっと遠くに車を停めた。木々に囲まれた、自然が溢れる道を歩いて行った。細い藪道を抜けた辺鄙な場所に、そのBinoweeというビニールハウスがあった。
「あった!ここじゃない?」
「これは人に聞かないと絶対わからないね…」
しかし、である。扉が開かないのである。二人で立ち往生していると、一台の車が同じようにやって来てビニールハウスの前に停まった。
てっきり、このショップのオーナーなのかと思ったが、車から出て来た夫婦二人も、扉の前で往生している。「今日はやってないのかしら」と呟いている。
話してみると、彼らもお客さんであり、しかも店のオーナーさんと知り合いのようだった。「ちょっと電話してみるわね」と夫人は言う。
気まぐれなオーナーさんらしく、1時間後にこちらへ向かうということだった。
「これから1時間、どうしましょうかね。一緒にローズマリー公園でも行きますか?」
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僕らは、今知り合ったばかりの夫婦の車に乗り、そのローズマリー公園へと向かった。
「若いっていいわね。二人は結婚してるの?」
「いやいや! 付き合っているだけですよ〜〜」
僕らはとても仲睦まじく見え、結婚をしていると思われたらしい。このご夫婦は、ずっと千葉に住んでいて、旦那さんがこの辺りで歯医者をやっているとのことだった。
ローズマリー公園は変な公園だった。道の駅があって、まるでスーパーマーケットで買い物するかのように、地元民が活用していた。そして、オランダ風の建物(バブル期に建設された雰囲気を持つ)がいくつか立ち並んでいた。そこで何枚か写真を撮ると、エキゾチックな一枚になった。
それからソフトクリームを買い、ベンチに座ってのんびり時間を過ごした。
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植物園に戻ると、果たしてお店は開いていた。店内にはたくさんの多肉植物が置いてあった。
「これが欲しかったねん」
いくつかのぷくっと膨れた多肉植物を買って、彼女は満足そうだ。
「名前付けてあげよ〜っと」
「名前?」
植物に名前をつけるという不可解な行為すら、なんだか愛おしい。名前をつけられた彼らは、今でもリビングですくすくと育っている。
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僕は、この旅をとても満喫した。人生で一番楽しんだ旅行だったかもしれない。本当に、楽しかった。そして、これから先も、この二人で、時に人の助けを借りたりしつつ、遠くまで行けるような気がした。
それは予感だ。ポジティブで、楽観的な予感だ。後で話してわかったことだが、彼女の方も、この旅を通じて、僕とやっていけそうな気持ちになれたらしい。根拠のない自信も、2人分集まると、やや現実味を帯びてくる。
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人は目標を持つことで頑張ることができる。仕事やプライベートでは、一年の初めとか、月の初めの区切りの良い時に、「個人的な目標」を設定するとよい。達成したかどうかも重要だが、目標を設定することそれ自体にポジティブな意味が多くあるように思う。
だからと言って、パートナーと二人での目標を、必ずしも持つ必要はないと思う。お互いのペースがあるし、無理をして相手に合わせるのは窮屈だ。
それでも、それがあれば、少しだけやることが具体的になる。二人で同じ方向を向くことができるようになる。車を手にした人間のように、より遠くへ行けるようになる。
『47都道府県を二人で巡る』
その目標は僕らにとって、今よりも遠くへ行く手段となった。もしかしたら、パートナーと二人で作る目標は、それ自体が人生の「乗り物」になり得るのかもしれない。
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初めて二人で旅行をしてから、1年半が経った。僕らは今でも、週末や有給休暇などを駆使して、国内旅行を続けている。二人で訪れた都道府県は、ようやく30を超えた。
目標達成が目に見えてきて、それが嬉しい一方、ちょっぴり寂しくもある。でも、大丈夫。車での旅を終えた後には、きっと、新しい乗り物が僕らを待っている。
そして、今よりももっと、遠くへ行けるようになるはずだ。
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