祈って運は開けない――摂理に適う生き方でこそ(デーリー東北「私見創見」)
みなさんが「運がいい」と思うのは、どういう時だろうか? 自分にとって、もしくは自分の人生にとってプラス(メリット)になることが起こった時だろう。
宝くじに当たるなどの臨時収入がある時や、努力して何かに挑戦した際に願った結果が得られた時も「運が良かった」と思うはずだ。逆に思いがけず損をした時、損をしそうな事態に直面した時は「運が悪い」と嘆くことが多いのではないだろうか。
この「運がいい」「悪い」の差はどこから生じるのか。人類は何千年もの間、自分の運を良くしてほしいと願い、時に神仏に祈ってきた。滝行のような水垢離や火渡り行などで身体を痛めつけ、「至誠天に通ず」と信じてきた。
ほぼ全ての宗教は、この「真剣に祈れば神に通ず」を信仰の基盤としている。現世であれ来世であれ、真剣かつ真面目に祈り、時には献金・お布施をすれば運が良くなり、思い描いた通りの利益や人生を手に入れられる――。
だが結論から言えば、「残念ながら、そのようなことはない」というのが筆者が最近学んだことだ。といっても人生に絶望して厭世的になったから、そう語るわけでもない。
当コラムで以前にも書いたが、筆者は約20年来「スピリチュアリズム」を通じて霊的な知識を研究し、最近は信奉して実践も深めている。ここ半年間にそのスピリチュアリズムの全体像を最新研究から学んで「自分の願望を神に祈ってもムダ」との結論に至った。
本稿はここからが本番だ。耳慣れない人もいるだろうが付いてきてほしい。
神は地球を含む全宇宙と、死後に我々が赴く世界=霊界にいる万物を、複数の摂理(法則)を通して支配し、調和状態が保てるようにした。神というと“人間の姿”をしたイメージを持つ人が現代でもほとんどだが、ギリシャ神話のような人間臭く怒り策略を巡らす神は、全く存在しないのだ。そんな卑小な存在ではない。
摂理とは何か。例えば、自分が撒いた種は自分で刈り取らねばならない「因果律」もその一つだ。さらに人間を「幸福にし、成長させる」ための摂理も神はちゃんと造ってあった。それが「霊優位の摂理」と「利他性の摂理」だ。
霊優位の摂理とは「自分の肉体本能よりも霊性=愛情、慈悲、思いやりなどを優先させる生き方」を重視すること。利他性の摂理も「自分より他者(人間に加えて動物も)の幸せに力を尽くす」ことだ。
地上に生まれた肉体を持つ人間は、どうしても自分自身を守ろうと肉体的な本能(煩悩や利己心)を優先してしまう。この肉優先の行為を仏教などでは戒律によって制限してきたが、肉体も神が与えたものならば無碍に扱うべきではない。世を捨てて自分だけ救われようとの考え自体が利己的だろう。「自分さえよければ」という動機はすべて摂理違反になってしまう。
摂理は自動的かつ機械的、厳格に作用する。何人たりともその摂理から逃れることが不可能。ゆえに全知全能の神の法則なのだ。「利己心を極力減らし、困っている他者の力になる」が摂理に適った生き方であり、幸福につながる。
一個人の運の良し悪しも当然、この摂理の支配を受けている。よく開運のために「一日一善」「徳を積む」などを重視する宗教もあるが、摂理に沿う分は幸運の引き寄せにも寄与しよう。だが「人に優しくすれば運が良くなり自分が得する」という利己的な動機からでは、それらの善行は無効となる。「動機が不純」だからだ。
金持ちや有名人になろうと「人のため」をアピールしても、利己主義に根差せば無意味だ。ゆえに霊優位と利他性の摂理は実践が非常に難しい。
そもそも人はなぜ、この世に生まれ死に往ゆくのか。人間は死ねば終わりではない。死後も我らは霊界で永遠に生きて、成長し続ける。そのための準備をするのが「この世」なのだ。
仮に運が良くなって金銭などを得てもあの世には持っていけない。霊界で通用する宝は今生で高めた自身の霊性のみであり、霊的な成長こそが死後の霊界での宝なのだ――。
これが霊界主導で地上に降ろされたスピリチュアリズムの霊的知識である。そう考えれば、開運して金儲けしたいとか、モテるように自分を改造して色恋にうつつを抜かしたいとか、そんなこと考えている場合ではないとわかるだろう。
(了)
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