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#207 負けず嫌いの成れの果て(小林遼生/4年)
1番になりたかった。
勉強でも、運動でも、
とにかくなんでもいいから1番になりたかった。
しかし、これまでの人生を振り返ると自分が何かで1番になったことは一度もなかった。
同期がプロになった。
一般入学の同期がトップチームで試合に出た。
後輩がインカレのメンバーに入った。
「小学校時代のチームメイトがプロで活躍した」
周りの人間が成功していくたびに、
何も成し遂げられない自分が嫌いになっていった。
—————————
申し遅れました、
筑波大学蹴球部なんちゃって会計局長の
小林遼生と申します。
去年、先代局長から
「お前来年局長な」
と言われ、
絶望に打ちひしがれてからはや1年、
ついに自分がブログを書く番がやってきました。
どーせ書くことないしなと思い、
先延ばしにしていたところに、母親から
「あんた蹴球部で何もしてないんやからブログくらい書きなさい」
という辛辣なお言葉を頂戴したため、
言葉を振り絞ってブログをかきます。
ぜひ最後までお付き合いください。
—————————
小学2年生の時にサッカーを始めた。
幸いサッカーに関しては吸収が早い方だった自分は、どんどん上手くなっていった。
自分の成長が嬉しかった。
だから毎日練習した。
いろんなスクールに通った。
練習がない日は自由参加の自主練に必ず行った。
親が引くくらいサッカーをしていた。
しかしそのチーム内には、
常に自分より上手いやつがいた。
中学に上がるタイミングで、
そいつと一緒にジュニアユースチームの
セレクションを受けた。
そいつはセレクションに受かって、
おれはセレクションに落ちた。
そこからどんどん差が開いていった。
中学の最後の大会はそのジュニアユースに負けた。
高校では、最後の選手権であっさりと負けて引退した自分とは対照的に、そいつは夢だったプロへの道を切り開いていた。
これ以上ないまでの大敗北だった。
大学ではサッカーを辞めるつもりだった。
せめて、大阪大学に行こうとサッカーが終わってから死ぬ気で勉強した。
しかし、共通テストで模試でも
食らったことのないE判定をくらい、
志望校を変えざるを得なかった。
「なら、サッカーするか」
「どーせなら、絶対1番になれなそうなとこに行くか」
自分の限界を知ってサッカーをやめようと思った。
そうして、筑波大学に行くことを決めた。
2次試験での壮絶な逆転劇を決め、
なんとか合格することができた。
限界を知るためにこの4年間はひたすら上を目指す。
そう決意して筑波大学蹴球部に入部した。
そこから2年は順調だった。
1年生で2軍に上がれた。
2年生では、2軍でほとんどの試合に出場した。
「いける。」
3年生で、トップに上がる。
そしていつか試合に出て活躍する。
そう決意して、3年目を迎えた。
しかし、シーズン初めに送られてきたトップのメンバーリストに自分の名前はなかった。
「大丈夫、まだ10ヶ月もある」
焦る自分に何度もそう言い聞かせた。
しかし、その思いとは裏腹に2月にシーズン最初の怪我をした。
なんとか開幕戦には間に合ったが、
5月に2回目の捻挫、
復帰した直後の6月には3回目の捻挫をした。
気づけば半年を棒に振っていた。
正直ここからトップに行くのは無理かもしれない、
そんな考えを必死に抑えて、そこから全力でサッカーに取り組んだ。
8月11日の中央学院戦、復帰後2週間だったが、
ベンチに入ることができた。
後半10分、コーチに呼ばれた。
「やっと復帰できる」
ハイタッチしてピッチに入る
スコアは0-0、ここで点を決めたらヒーローだな。
そんなことを考えていた。
ファーストプレー
右サイドでドリブルを仕掛けた際に、
相手と交錯し、前のめりで倒れた。
その瞬間、肩に激痛が走った。
肩関節脱臼
でも、その時は少し動かせば治るだろう、
その時は本気でそう思っていた。
しかし、完全に外れた肩がすぐ治るわけもなく、わずか30秒で私の復帰戦は終わりを迎えた。
「お前は何をやってるんだ」
運ばれる救急車の中で、何度も自分に問いかけた。
「活躍してトップに行くんじゃなかったのか」
思い描いていた自分とのギャップに吐き気がした。
病院で全治3ヶ月と診断され、
3年生のシーズンが終わった。
迎えた4年目。
「せめて一度だけでもトップに行きたい。」
諦めきれなかった。
最後の1年、
トップに行くために頑張ると決めた。
しかし、その思いとは裏腹に自分の調子は
全く上がらなかった。
今までできていたことができない。
触れていたボールが触れない。
自分を差し置いて後輩が試合に出る。
途中交代しても何もできない。
地獄だった。
練習が終わったら自主練もせずに、
すぐ帰る日が増えた。
「もう諦めろ。無理だ。」
何度も自分に言い聞かせた。
諦めようとした。
でも、
「トップへ行きたい」
という気持ちは消えてくれなかった。
「どうせ、あと少しなら後悔がなくなるまでやってやる。」
毎日、少しでも自主練をするようにした。
嫌いだった筋トレもやった。
そうすると少しずつ感覚が戻ってきた。
しかし、その頃にはリーグ戦は残り3節しか残っていなかった。
迎えた10月20日、東京国際大学戦。
最高の雰囲気で迎えた引退試合。
この1年で最も調子がよかった。
試合は1-0で勝利した。
最高の引退試合だった。
もう引退してもいいかな。
そう思った。
しかし、この4年間一度もトップに行けてない。
そのことが悔しくて仕方がなかった。
同期のみんながこの試合で引退を決めた中、
自分は1人、インカレまで残ることを決めた。
残ったところで入るかはわからない。
入ったとしても試合には出られないかもしれない。
それでも、
「トップに上がる」
という夢を諦めることができなかった。
その2ヶ月は、
人生で1番サッカーに向き合ったと思う。
トップの練習にも呼ばれた。
手応えはあった。
迎えた12月。
携帯の通知が鳴った。
正直入っていると思っていた。
しかし、何度メンバーリストを見返しても、
自分の名前を見つけることはできなかった。
こうして私の大学サッカーは幕を閉じた。
結局トップチームに上がることは1回もなかった。
あいつに追いつくことも結局できなかった。
「サッカーは大学で終わり」
そのはずだった。
しかし、九州でトップの試合を見て、
明治大学との試合をみて、
かっこいいなと思ってしまった。
あいつがプロで活躍してる姿をみて、
悔しいと思う自分がいた。
気づいたら社会人チームを探していた。
皆さんはもう勝てないと思うだろう。
おれもそう思う。
それでも、まだ負けを認めたくない。
だから、この負けず嫌いの行き着く先まで、
気が済むまでやってやる。
—————————
終わりに
自分は筑波大学の大学院に進学しながら、
社会人チームでサッカーを続けます。
結局サッカーも諦められませんでした。
ってことで、小学校の同期H.Tくん
勝負はまだ終わってないということになります。
読んでるかは分かりませんが、
勘違いすんなよ。
最後に、
自分に関わっていただいた全ての皆様、
本当にありがとうございました。
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筑波大学蹴球部
理工学群社会工学類4年
小林遼生