勝手に救われ勝手に踊る【日記】
20241118-1124
スシローに行ってスンスンのステッカーを貰ったりしたいけど、それって煽られた消費に踊らされてるだけでは…?と思ってしまい踏みとどまっている。本当はこんなこと考えずに踊らされてしまいたい。というより、自分の意思で踊ったりしたいかも。スンスンとノンノンみたいに。
血の匂いがする。自分ではコントロールできないところで、ただただ吐き出している。下腹部の痛みに耐えられないから薬を飲む。手元に水がないからレモンジュースで飲み込んだ。どうしてみんな、性別をかたどられた制服や着るべきだとされている服を、疑うこともなく着れるのだろう。この身体で生きることを、わたしはいつも、選んではいない。
ドコムスチャンネルしか観れない時期からようやく脱却しつつある日曜日。
今再生しているRex Orange Countyの最新アルバムに勝手に救われている。「救済」とか「救われた」みたいな言葉をたやすく使いたくないのには理由があって、例えば『怪物』という映画の感想に「多くの人を救うかもしれない」と書かれているのを目にした時に、自分でも分からないけどめちゃくちゃ腹が立ったから。これはつまり、クィアな要素をもつ人間は「救われるべき」と思われていて、この映画は救済措置としてのエンタメだと思っている?そうだとしたらまあまあムカつく。あれはエンタメと言うよりこの国の現状を描いた脚本だと思うし、あの結末は嫌いじゃないし芸術としては素晴らしいと思うけど、実際のところ誰も救っていない。
この作品に限らず、何かしらの文学やエンタメの感想として「救われた」と表明することは、つまり自分は「救われる側の人間です」と表明しているような気がして悔しかった。プライドが高いだけなのかもしれない。誰かを「救おうとして」つくられたあからさまなエンタメも好きではないから摂取しない。エンタメは薬じゃないから、摂取したところで下腹部の痛みは消えない。
「誰も救おうと思うな、ただ光ってろ」と星野源は歌っているけれど本当にその通りだと思う。その光に、わたしは、勝手に救われているだけだ。
シャワーを浴びながら思ったことを書いてみたら、なんか怒ってるみたいになってしまった。うーん。怒ってるけどそんなに怒ってないです。
わたしは怒りを怒りと認識するのにすごく時間がかかるタイプの人間だと最近気づいた。
思い出したついでに書いておくと、少し前に『夜明けのすべて』という映画を見返したんだけど、この作品の素晴らしいところは、問題を解決することを物語の結末としていないところだと思った。パニック障害もPMSも完治したわけじゃないけど、山添くんも藤沢さんもそれぞれのやり方で生きていくことを選んだ。この映画がNetflixでいつでも観れるというのは、ある種のお守りみたいにも思える。
そして今週から『カムカムエヴリバディ』の再放送が始まっていて、松村さんと萌音ちゃんがまた観れるのが嬉しい。そういえばnoteに日記を書き始めた頃はカムカムの感想ばかり書いていたなあ。
夜、散歩しながら聴いたテイラー・スウィフトの「All Too Well (Taylor’s Version)」があまりにも季節の曲で、なんだかすごく寂しい気持ちになってしまった。軽率にひとりで聴いていい曲じゃなかった。