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「何もかも忘れちゃったのよ」と母が言った

出張が続いていて2週間に1回の往診に立ち会うことができなかった。しばらく会いに行けてないと母が夢に出てくる。老人ホームから連絡がないので特に変りなく過ごしているはずだけど、「呼ばれているな」と思う。時間が開けばあくほど、どんな顔をしているか?少し気が重くなる。

カツカレーを食べてスタミナ補給してから老人ホームへ。


看護師さんは「波はあるけれど、まあまあです」と言う。
介護スタッフは「低空飛行気味です」と言う。

健康面は問題ないし、食事や薬を拒否することはないので「まあまあ」と言うのが看護師さんの見解で、介護スタッフはもっといい状態で過ごしてもらえないか? 少し対応に困っていることがあるのだと推察できた。
低空飛行の原因は、このところの低気圧のせいかもしれない。

母は14時からのアクティビティに参加していて、
クリスマスの歌をみんなで歌い、機嫌がよかった。
笑顔で「あらー、いつくるかと思っていたのよーー!!」と母は言う。
ほっ。まだちゃんと私の顔を覚えていてくれたか。

個室に移動し、しばらく話していると、「バカと言われた」と不穏な顔を見せる。実際、誰かがバカと言った訳ではないが、思うようにいかないことが多いとか、不安が強いサインなんだと思う。

私にクーピーと紙を手渡し「書いてくださる?」と言う。
「絵を描こうか?」と聞いたら「あなたのことを書いてくださる?」と母。
私は戸惑いを隠しつつ大きな字で、自分の名前と誕生日、干支、
好きな色と好きな食べ物を書いて母に見せた。
「ありがとう。何もかも忘れちゃったのよ」
静かで冷静な言い方だった。一瞬だけ昔の母があらわれたようだった。
いつもは冗談で切り返すのだけど、昨日は黙ってしまった。

思い出したくても思い出せない、
何もかも忘れてしまった真っ白な世界の中にいるのはどんな気持ちだろう。

帰りの電車で泣いた。

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