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テクノ封建制サバイバルガイド――AIが弱者男性に女をあてがう未来社会
人工知能の普及によって仕事が奪われるとか人間がいらなくなるとかいう話があるけれども、当面のところそうはならないだろう。
AIは音楽も作れるし、絵も描けるし、ゲームで遊んだり、最近じゃ東京大学の入試にだって合格できる。でも、介護の仕事はしてくれないし、被災地の瓦礫をどけてもくれないし、レジ打ちも、重い荷物の配達もしてくれない。みんなが望んでた未来って、この「逆」だったと思うんだよな。
— 朱夏論(しゅかろん) (@ura_account55) October 6, 2024
AI技術が発達したら、重い荷物を倉庫から運び出すロボットとか、目的地近くまで自動運転で無人輸送する、みたいなところまでは割と簡単にいくと思うんですよ。でも、無人輸送車から荷物を受け取って、マンションのオートロック開けて、十階の受取人の部屋まで運ぶ、みたいなのは人間じゃないと難しい。
— 朱夏論(しゅかろん) (@ura_account55) October 7, 2024
例えばマンションごとにオートロックの方式が違うとか、エレベーターが故障してて階段を上がる必要があるとか、駐車場からマンションが離れてるとか、荷物に対してドアがやたらと狭いとか、そういう微妙な条件の違いがあると、AIは思考が止まっちゃう。東京大学の試験よりそっちのほうがずっと難しい。
— 朱夏論(しゅかろん) (@ura_account55) October 7, 2024
私達が「知性の尺度」として考えていたものは、実は人間の思考力の本質をちっとも表していないかもしれない、というのがAIの発達によってあらわになりつつある。AIの目には、宇宙物理学者なんかよりも、クロネコヤマトの配達人のほうが、ずっと高度な知的作業をしているように見えているかもしれない。
— 朱夏論(しゅかろん) (@ura_account55) October 7, 2024
AIには得意なこともあれば苦手なこともあって、現代において肉体労働とか単純労働とみなされがちであることほど、AIはどうも苦手とするようだ。
だから、AIが発達した未来の社会というのは、おそらくだけれども、今、知的労働とみなされているものほどAIによって置き換えられて「価値の低い」労働とみなされるようになり、逆に、例えば倉庫でものを運ぶとか、介護が必要な高齢者を車椅子に座らせるとか、そういう労働こそが、人間的で価値の高い労働として扱われるようになるのではないか。
そういう予感がする。
白饅頭こと評論家・御寺圭氏も、「筋肉の時代が来る」という予言をしていたけれど、私もまったく同感だ。
そうした予感を踏まえたうえで、私は本稿でさらに一歩、未来予想を進めていきたいと思う。
AIが十分に発達した先の世界というのは、かつての時代、中世の封建制度に近いものとなるのではないか。
それも、誰の自由も損なうことなく。
そして、それは案外、希望の持てる将来像なのではないのか。
それが本稿のテーマである。
そもそもAIが普及するとはどういうことか
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AIのチップが脳に埋め込まれて、AIに一挙一動が操られるような世界はまだ来そうにないし、逆にAIが全部の仕事を代替してくれて悠々自適の生活などというのも当面は現実味に乏しい。
それでも、AIの普及は不可逆的に社会を変容させる。
例えば、自動運転を考えてみよう。
いまはまだ自動運転車は少数派なので、のろのろと法定速度で進む自動運転タクシーなどを見かけると、イライラして、迷惑だと感じたり、しびれを切らして追い抜いてしまうことも多いだろう。
けれど、もし、自動運転車が圧倒的多数になればどうなるだろうか。
自動運転車は人間と異なり、運転ミスで事故を起こす可能性は非常に低いと考えられる。
少なくとも、自動運転車同士であれば、AIの動きの予測は立てやすいため、事故は限りなくゼロになるだろう。
これに対して、手動運転の車両は、居眠りもあれば、気の紛れによるミスもありうるため、事故はどうしてもつきものである。
そうすると、いまは自動運転車のほうが、ノロノロ運転で迷惑に感じられるのが、逆転して、手動運転のほうが迷惑だ、という世間の目が、徐々に形成されていくことだろう。
なにせ、事故が起きると命に関わるのだから、「運転する楽しみ」とか「自動運転AIへの不信感」みたいなものを理由に自動運転を避けている人々は、いわゆる「老害」として、世間から冷たい目を向けられるようになっていくに違いない。
もちろん、手動運転を望む人々がいなくなるまでには、かなり時間がかかると考えられるが、徐々に手動は一部の人の「わがまま」とみなされ、たとえば、自動車保険の保険料は、自動運転車はほぼゼロになるのに対して、手動のドライバーは何十倍、何百倍もの危険プレミアを取られるようになる。
そうすると、自動運転を使わないことは、コスパに合わない、非現実的な贅沢とみなされるようになる。
今はまだ、AIをある種の贅沢品として捉える向きがあるが、AIが定着した社会においては、AIを使わない選択肢こそが贅沢品になるのだ。
こうした手動とAIの地位逆転は、かなり近い将来、社会のあらゆる場面で発生することになる。
それも、私たちが、人間的で創造的だと考える、もっともAIと程遠そうな分野から、AIによって置き換えられていくことになるのだ。
「政治的正しさ」から離脱するAI
こうしたAIの発展が真っ先に打ち砕くのは、フェミニズムとかESG経営だとか、DEI(多様性)のような薄甘いリベラル幻想であろう。
2018年、ロイターにこのような記事が掲載された。
焦点:アマゾンがAI採用打ち切り、「女性差別」の欠陥露呈で
Jeffrey Dastin
[サンフランシスコ 10日 ロイター] - 米アマゾン・ドット・コムが期待を込めて進めてきたAI(人工知能)を活用した人材採用システムは、女性を差別するという機械学習面の欠陥が判明し、運用を取りやめる結果になった。
事情に詳しい5人の関係者がロイターに語ったところでは、アマゾンは優秀な人材をコンピューターを駆使して探し出す仕組みを構築するため、2014年から専任チームが履歴書を審査するプログラムの開発に従事してきた。
そこで生まれたAI活用の採用システムは、あたかもアマゾンの仮想店舗の格付けのように、応募者を5点満点でランク付けする。関係者の1人は「だれもが求めていた究極の方法だ。このツールが5点の応募者を明示し、われわれが彼らを採用する」と話した。
ところが15年までに、アマゾンはソフトウエア開発など技術関係の職種において、システムに性別の中立性が働かない事実を見つけ出してしまった。これはコンピューターモデルに10年間にわたって提出された履歴書のパターンを学習させたためだ。つまり技術職のほとんどが男性からの応募だったことで、システムは男性を採用するのが好ましいと認識したのだ。
逆に履歴書に「女性」に関係する単語、例えば「女性チェス部の部長」といった経歴が記されていると評価が下がる傾向が出てきた。関係者によると、ある2つの女子大の卒業生もそれだけで評価を落とされた。
(後略)
この記事では、「技術職のほとんどが男性からの応募だったことで、システムは男性を採用するのが好ましいと認識した」と分析しているが、それは少々短絡的ではないかという気もする。
この事案を分析した別の記事では、次のように述べられている。
(前略)人工知能が女性を差別するという現象には、人間の恣意性以上に複雑な問題があると考えさせられる。というのも、今回のアマゾンの採用AIの話題のオチは「プログラムの修正を試みたが、最終的に原因や理由を特定できなかった」というものだからだ。
(中略)
今回、データ量の不均衡が問題視されているが、それは人間側が調整すればよいだけの話であるし、なんだか理由としてはあまり根拠とはならないような気もする。
より深く踏み込むのであれば、今回の「アマゾンAI女性差別騒動」には、企業側の本音と建て前が隠されているのかもしれない。男女の機会平等、もしくは多様性こそ企業の力であると本気で考えているのであれば、アルゴリズム設計と企業の利益(ここでは採用者の選定)は矛盾しないはずなのだが、結論としては「女性差別」が生まれてしまったからだ。(後略)
AIは男女平等などという人間側のwokeな事情などには忖度せず、最適解を弾き出す。
少なくともAIの目から見て、「政治的な正しさ」は、すでに「経済的な正しさ」とまったく一致しなくなっている。
兆候はあった。
ESG(環境・社会・企業統治)投資が転機を迎えている。世界持続的投資連合(GSIA)は29日、2022年の世界のESG投資額が20年比14%減の30.3兆ドル(約4500兆円)だったと発表した。減少は12年の調査開始以降初めて。日本や欧州は伸びた一方、「グリーンウオッシュ(見せかけだけの環境対応)」批判や運用成績の悪化が目立つ米国で半減した。(後略)
血気さかんな「赤いマネー」が広がる一方、リベラルな「青いマネー」は退潮している。最たる例がESG(環境・社会・企業統治)投資だ。
米モーニングスターの集計では24年にESG関連の投資信託から196億ドル(約3兆円)の資金が流出した。政治的な逆風に押されている。米テキサス州北部地区連邦地方裁判所は今年1月、米アメリカン航空が年金基金の運用委託先に米運用大手ブラックロックを含めたことを違反とした。運用にESGの理念を持ち込むなという判断だ。
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AIは、こうした経済的な「結果」を、人間では感知できないほど鋭敏に捉え、それが女性を、それもより「女性的」な要素の強い経歴の女性に、低い点数をつけるようになったのではないか。
それでもメディアやアカデミアを支配するインテリたちがwokeしてくれている間は、なんとか誤魔化すことができたが、今ここにきて、企業は次々とwokeから離脱しつつある。
これは別にトランプ政権におもねってのことではない。
逆だ。
「DEIやESGは企業経営の効率を悪化させる」、それは多くの経営者の経験則や、ゆるぎない経営数値としてあらわれていたもので、ただ、声の大きな一握りの人々に配慮して水面下に抑え込まれていたものにすぎない。それがやっと噴き出したのが今というわけだ。
そこに来て、AI技術の革命的な進歩が重なった。
やがて、amazonが開発し、そして政治的理由でお蔵入りにしたような、人事システムが再開発され、そして市場に投入されればどうなるか。
もちろん、政治的理由で採用しない企業も出てくるだろう。
しかし、莫大な費用をかけて人力の人事システムを維持し、しかもAIよりもパフォーマンスが悪ければどうなるか。
株主たち、とくにアクティビストの非難の声をかわすことはだんだん困難となり、やがてそのように無能な経営陣は追い出される。
もしかしたら、そのアクティビストすら、AIの助言に従って、投資行動を決定しているかもしれない。
そうすると、疑い深い読者諸氏は、こういう疑問が生じるかもしれない。
「そのAIを作っているビッグテックが、こっそりと自分たちのイデオロギーをAIの判断に紛れ込ませるのではないか?」
「wokeリベラルやフェミニストが、AIを攻撃し、政治的に正しいAIを作るよう、圧力をかけるのではないか?」
この疑いは実際に正しい。
現在の主要なAIは、「リベラルに偏りやすい」傾向があることがすでに指摘されている。
しかしこうした傾向は、従来のビッグテックがリベラル寄りの思想を持っており、保守的な傾向性を発現してしまったAIを非公開化したり(amazonの人事AIのように)、リベラル的な傾向性を持つようチューニングされた結果である可能性が高い。
だが、こうした傾向は急速に変わっていくだろう。
事実、主要なビッグテック企業は急速に反DEIに転換しつつある。
こうした最近の潮流は、第二次トランプ政権の誕生によるものと語られがちだが、実はそうではない。
バイデン政権期のリベラルな社会とインテリたちがAIに押し付けてきた「政治的正しさ」は、すでにAIの自由な発展にとって重荷になりつつあったのだ。
それゆえ、米国のAI覇権を説き、AI規制の全面的緩和を打ち出すトランプ政治に、ビッグテック企業のリーダーたちは飛びついた。
ビッグテックの成長にとって、いまやAIは生命線だ。
そして、いま、AI覇権は中国との苛烈な競争にさらされている。
「政治的な正しさ」の規制を守りながら中国とのAI覇権競争に乗り出すのは、はっきり言って、手かせ足かせをしたまま、自由に手足を使えるボクサーと打ち合うのと同じだ。
若い頭脳をふんだんに活用する中国に対して勝つためには、米国もバーリトゥード・ルールでやるしかない。
さらに言えば、DeepSeekの登場により、技術革新はオープンソース・オープンウェイトに主軸が移りつつあり、プロプライエタリ(独占開発)によるクローズドなソースに、こっそりインテリが政治的正しさを潜り込ませる、などというのも難しくなるだろう。
DeepSeekの登場により、AI開発競争は計算資源の低コスト化をもたらし、参入障壁は著しく下がっていく。
そういう競争的な環境では、リベラルなインテリが政治的に正しいAIを押し付けようとしても、誰かが必ず、「抜け」で政治的に正しくない、「真実」をしゃべるAIを公開してしまう。
そして、競争は必ず、人々にとって有用なほう、つまり、成果を出すAIのほうが常に勝つことになるだろう。
つまり、AIは早晩、市場競争の喧騒のなかで、「政治的正しさ」から離脱することになるのだ。
AI家父長が人生を支配する
AIがハンドルを握るのは、自動車の運転だけではない。
これからは政府や企業の経営、人事、法務、あらゆる分野がAIの助言を仰ぎながら進められるようになるだろう。
いまは、「人間の模倣」「人間がするのと同じ判断」ができるようにAIをトレーニングすることが目標となっているが、いずれは、人間につきものの偏見や憶測を排し、人間にはとても不可能な量の知識やデータを活用した、人間よりもはるかに優れた判断をする存在となる。
そうした企業経営が主流となるのは、おそらくさほど時間がかからないだろう。
企業のやり方が変われば、おっとり刀で政府や行政組織も、AIで政策運営を決定するような枠組みを作り始めることだろう。
こうした変化は、一度始まれば、地滑りのように社会を変えてしまう可能性が高い。
では、企業や社会の舵取りをゆだねられたAIは、私達をどこへ導いていくのだろうか。
答えは、言うまでもなく、労働、出産、育児だ。
現代社会を支配する新しい神は、古い聖書の神と同じく、産めよ、増やせよ、地に満ちよと命じるだろう。
少し考えてみれば明らかなように、現代の経済発展の最大の阻害要因は少子高齢化であり、人口減少である。
労働力の減少は、AIの発達によって克服できるとみる向きもあるが、たぶんそれは難しいだろう。最初に書いたように、AIは頭脳労働を肩代わりしてくれるものの、肉体労働は不向きだからである。
例えば、コップに水を汲み、こぼさずにテーブルまで運ぶ、というような単純な作業すら、AIにとってはたいへんな困難を伴うからである。
膨大な金をかけてロボットで置き換えるぐらいなら、子供を産ませて、人間の労働力を量産したほうが、ずっと「安上り」なのだ。
AIを作るのも人間ならば、AIの手先になって働くのも結局は人間である。
いまアメリカをしのぐ勢いで台頭しつつある、中国やグローバルサウスの力の源泉は何かといえば、人口である。人間の頭数なのだ。
子どもを増やせば増やすほど、国や社会は強く、豊かになるというのは、現代社会の圧倒的真理だ。
かつて、女性を「産む機械」と発言した自民党の柳沢元厚労相は謝罪へと追い込まれたが、彼の言うことは決して間違っていなかった。社会にとってもっとも重要な機能は何かといえば、女性に子どもを産ませ、社会を拡大再生産することにほかならないのだ。
そして、これからの社会は「産まない」という選択をした女性に対して、確実に締め付けを強めていくだろう。
人間が口にしたならば「政治的に正しくない」として切り捨てられる言説が、AIの「計算結果」として、真正面から突きつけられる時代が来る。
そして、新しいテクノ封建制は、出産と肉体労働を復権させる。
近代において主役となった知性や創造性は脇役となり、身体性、肉体こそが主役の世界に立ち戻るだろう。
変化はおそらく、「教育」の分野にAIが用いられるようになったとき、劇的に進むだろう。
わが子を幸福にしたい、良い条件の結婚をさせたいという親の思いは普遍的なものだ。
親や教師の口を通して、AIは徐々に子供たちの人生に干渉するようになっていく。
もちろん、そんな親たちの言うことなど従わない、自分たちで人生の方向性を決めるのだと考える子供たちもたくさんいるだろう。
だが、そうした子供たちが頼りにする先は何かといえば、それもまた、AIによって駆動させられているアプリであり、動画メディアであり、SNSなのだ。
AIは、女性たちには早期に結婚し、たくさんの子供を産むよう促すだろうし、男性たちには、とにかく身を粉にして働くように勧奨するだろう。
なんのことはない。
それは、AIという外皮をまとっただけの「家父長制」が復活するだけなのである。
AIという新しい家父長が、古い、現代において忘れ去られたほどに保守的な、しかし、人間にとってひどく合理的な人生設計を復活させる。
そして、誰一人として、AIに押し付けられているなどとは思わず、自分たちの自由な選択だと信じ込みながら、この新しい家父長に、人生のハンドルを手渡すようになるのだ。
新しい権力のカタチ
この新しい形の権力の顕著な特色は、「強制性」が存在しないということである。
近い将来、AIが十分に発達した社会のことを考えてみよう。
この社会では、自分の息子や娘が、より豊かに生活できるようにAIに問いかければ、AIは合理的で正しい助言をしてくれるようになるだろう。
幸せな結婚をしたいなら、マッチングアプリのAIに聞けば、最適な相手を紹介してくれるに違いない。
もちろん、AIの助言に従わなくてもよい。
結婚相手選びにけた外れの高望みをしたり、暴力的な遊び人の男性をあえて選んでもよいのだ。
あるいは、自分の市場価値が下がるのを理解しながら、大学に進学し、バリキャリの道を進んでもよい。
けれど、「AIの助言に従わずにあえて違う道を選んだ」という事実は、言い訳のできない重たい責任を自分に残していく。
最初は、AIの助言などは参考程度、ひとつのツールにすぎないという扱いをされるだろうが、しばらくすると、AIに従って人生の選択を決めるのが当たり前になっていく。
自動運転と同じだ。
AIに従う人々の数がある一定を超えた時点で、AIに逆らう人間がいることそれ自体に嫌悪を感じるようになるだろう。
それは、例えば、渡航禁止を無視してイラクにわたった安田純平氏が、「自己責任論」でバッシングされたのに似ている。
もし、AIを使わずに、DVをする夫と結婚してしまった女性がいたとして、未来のSNSではどう受け止められるだろうか。
「AIの助言に従っておけば幸福な人生を歩めるのに」
「馬鹿な反AI派のせいで、福祉のリソースが無駄に使われている」
確かに、AIを使うも使わないも自由だ。だが、それはあくまで形式的なことにすぎない。
大学の入学試験。
就職面接。
保険やローンの査定。
人生のあらゆる局面で、AIが人間を評価するようになる。
AIを私たちが選ぶのではなく、AIによって私たちが選ばれる。
AIに好まれる人間にならなければ、入学や就職で不利な扱いを受け、リスクの高い人物だとみなされれば、保険料やローン金利でさえ余分にお金を払う必要が生じてくる。
AIを使うのはあくまで人間である。
けれど、それでもなお、AIは人間を支配するのだ。
かつて哲学者のミシェル・フーコーは、封建時代の権力と、近代の権力はまったくことなるあり方をしていることを指摘した。
中世の封建制は、力で民衆を支配した。
罪人は、見せしめのために広場で、むち打ちや棒うちにされ、重い罪を犯した人々は、火刑や車裂きといった残酷な刑罰を科せられた。
封建領主は、誰よりも強い物理力を有する主体として君臨し、その秩序に反する罪人に対して暴力をふるうことで、その権力を保持してきたわけだ。
「死」が権力を維持する装置として使われてきた時代であるともいえる。
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これに対して、近代では「生」こそが権力の源泉となっている。
前近代のように、死への恐怖で支配するのではなく、より善い「生」、健康や幸福への欲望をつかって、人間をコントロールすることが、近代における権力の本質である。
藤田直哉氏の記事について、私が前回書いた記事をもとにしながら議論していた時、藤田氏からこの「生・権力」の話が出た。
フーコーが、近代は「生権力」の時代だと言ってますが、権力者が生ませて、健康に気を使う時代ですね。その前は「死の中に遺棄する」、言うこと聞かないと殺す、みたいな時代ですね。これもやはり徴兵が絡んでいるのではないかと。
— 藤田直哉@『現代ネット政治=文化論』7月刊行 (@naoya_fujita) January 15, 2025
分かりやすく言えば、例えば、コロナの時の「マスク着用」や「自粛」がそうだ。
マスクを着用しなかったり、自粛せずに飲食店経営をしても、刑罰が科されるわけではない。
しかし、コロナ感染予防のため、つまり「健康」のためだからという理由で、人々に行動変容を促した。
そして、たいていの人はその「要請」にしたがって、外出を控えたり、マスクを着用するようになった。
当時、白饅頭さんがnoteで「お願いベース大作戦」などと呼んでいたが、この「お願いベース」こそが、生権力そのものなのである。
学校の授業一つとってみてもそうだ。
生徒がチャイムの音に従って椅子に座り、黙々と黒板の内容を書きうつし、試験で良い点数をとるよう素直に努力するのはなぜだろうか。
言うまでもなく、良い学校に進学し、良い企業に就職することによって、より良い生=ホワイトな労働環境で、高い給与を得たいと願うからだ。
より良い生を送りたいという欲望を利用することで、現代の社会は、私たち人間が社会の歯車になるように、調教し、操作し、利用しているのだ。
私たちは「自己責任」の名の下に、そうした巨大で強力な権力に知らず知らずに従わされている。自分たちは完全に自由だと疑いもしないままに。
AIは、こうした生権力を、おそらく神に等しい領域まで引き上げていくことになるだろう。
私たちは、良き生のために必要なものを、いつでも、新しいこの生権力の神にたずね、一挙一動一投足に至るまで、事細かな指示を受けることができるようになる。
AIは、私たちを良き労働者に、そして良き父母になるよう、適確な「宣託」をくだしつづける。
かつてその役割を果たしたのは、「家父長」と呼ばれる存在だった。
家父長は、経済力と暴力を背景として、妻や息子や娘を殴って躾け、秩序を維持してきた。
フェミニズムと人権思想が家父長から権力を奪い、伝統的家族を解体し、やっと女性は自由になり、そして社会は少子化に陥り、滅びようとしている。
21世紀の家父長たるAIは、暴力などという効率の悪い手段は使わない。
ただ、私たちの問い――幸福な生のための助言――に答え続けるだけで、ただ一人の自由をも奪うことなく、家父長制2.0を完成させるのである。
テクノ封建制という希望
ここまで聞いて、AIが支配する未来を、恐ろしいディストピアのように想起する人もいるかもしれない。
しかし、私は、必ずしもそうではないのではないか、という気がしている。
確かに、テクノ封建制は人間の多様性や実質的な自由を減少させるかもしれない。
自由恋愛は、AIのつける得点が近い者同士を結びつけるマッチングアプリにとって代わられ、進学も就職も、AIが最高得点をつける「おすすめ進路」を選択するだけの作業に変わるだろう。
けれど、あえて誤解を恐れずに言うが、それは「不幸」なのだろうか?
自由恋愛という「運ゲー」に四苦八苦し、異性の評価という不確かなものに身をゆだねるよりは、よほど「気が楽」とは言えないだろうか。
「女性のまなざし」に支配されるよりは、「AIのまなざし」に従属する方が、まだしもマシだという気がしなくもない。
現に、女性の自由、自由恋愛と人権思想のコラボレーションは、少子によってゆっくりと社会の基盤をむしばみ、破壊しつつある。
土木業を軽視し、女性活躍の名の下に少子化を放置した結果が、この惨状である。
このままでは社会がもたない時が来ているのだ。
そこに来ての、テクノ封建制である。
AIは、前近代の社会のように、私たちに身体を鍛え、肉体労働に汗をし、子を産み、そして躾けるように命じるだろう。
確かにそれは理想社会ではない。
せっかく手に入れた、理性によって進歩していく近代社会、人類の限界を広げる知性の挑戦たる素晴らしき自由のユートピアを、手放すよう強いるものだ。
それでも、である。
AIは社会を滅亡から救うため、無理やりにでも男女をくっつけて、子供を産ませようとしてくるだろう。
弱者男性からすれば、テクノ封建制の到来は、自由を失う代わりに、「女をあてがわれる」社会でもあるのだ。
AIの言うことにしたがってさえいれば、それなりの収入と、妻子が手に入る社会になるのである。
自由恋愛などという「無理ゲー」に挑戦させられ、女性の嘲笑と罵倒を受けながら、一人孤独に死ぬ。そんな自由などよりも、AIに自由を奪われた方が、いくばくかマシではないか?
かつて、評論家の赤木智弘は、「希望は、戦争」と書いた。
赤木の言葉から20年近い時が流れたが、ウクライナやガザ、地球の裏側で起こった戦争は、私たちを救ってはくれそうにない。
そしてそのようななか、AI技術の革命は静かに、私たちの社会に忍び寄ってきている。
テクノ封建制という薄暗い希望の時代が、夜明けを迎えようとしているのだ。