見出し画像

無数の選択肢を捨てた先に

今の私は、このまま家で作業をするか、スタバに行ってほうじ茶クラシックティーラテを飲みながら作業をするかという「選択」に迫られている。

節約という観点から考えるとこのまま家で作業を続けた方が良いけれど、作業の進みという観点から考えると、スタバに行って意識の高い人たちに囲まれた方が集中してやるべきことを終わらせることができるだろう。一昨日初めて飲んで気に入ったドリンクも飲めるし。

とはいえ、家のソファに座ったままnoteを書き始めてしまえば、もうここから動くのはこの上なく困難である。

よし、家で作業を続けよう。選択完了だ。

昨日、『このプリン、いま食べるか?ガマンするか?』いう本を読んだ。

時間の使い方を見直すうえで、とても参考になる良い本であった。

その中でも特に私に驚きを与えてくれたのが、この文章だ。

何かを選択すれば、一方で選択しなかったものも生まれます。
「選択する」という決断は、「選択しない」という決断と裏表です。

柿内尚文『このプリン、いま食べるか?ガマンするか?』

なんということだろう!
今までなんとなく「選択する」という感覚はあったけれど、同時に「選択しない」という決断をしているということを全く意識していなかった。

引用した文章の続きでは、選択しなかった方に意識を向けて後悔するのではなく、選択した方の価値を上げる考え方をしよう、といったことが書かれているのだが、私の考えは少し違う。

選択は2択とは限らない。無数の選択肢があるのにも関わらず、選べるのはたったひとつだけ。

だからこそ、今までたくさんの選択肢を、たくさんの可能性を捨ててきたということを思い出し、胸に刻んで生きて行かなければいけないのではないだろうか。そうすることで、選んだ道がさらに意味のあるものとなるのではないだろうか。

例えば。
私は、部活を続けるという選択肢を捨てた。不登校になった高校にどうにか通い続けるという選択肢を捨てた。高校卒業後すぐに大学に行くという選択肢を捨てた。アルバイトを続けるという選択肢を捨てた。資格の勉強を頑張るという選択肢を捨てた。夢を追い続けるという選択肢を捨てた。

たくさんたくさん、捨ててきた。けれど今までの私は、捨ててきた選択肢がたくさんあるだなんて、考えたこともなかった。自分が選択した道の行く末だけを考え、今の状況の心地良さに甘え、捨ててきた道での可能性に見向きもしなかった。

それは、ある種前向きな生き方とも言えるだろう。過去を振り返らずに未来へ突き進むという意味では、ひとつの理想的な生き方とも言えるのかもしれない。

けれど。あまりにも自分勝手で、視野が狭くはないだろうか。

ありふれた選択肢からたった1つを選んだという感覚を持ち、捨ててきた選択肢がたくさんあると意識した方が、今までの自分の選択にも、そしてこれからの自分の選択にも責任が持てるようになると、私は思う。

今までの私には、それが足りなかった、とも。

人生は選択の連続だ。
今この瞬間にも、私はこの文字を打つか打たないかという選択をし、noteを書き終わった後にスタバに行くか行かないかという選択の準備をしている。

時間の使い方を選択するということは、その使い方以外の全ての選択肢を捨てているということだ。膨大な選択肢を捨てた先に、たったひとつだけの選択がある。

このことを心に刻むことで、私は、自分の選択に責任を持ち、後悔しない時間の使い方を選択していきたいと思う。

自由に生きていくという目標に向かって。

いいなと思ったら応援しよう!